ヒトラーと哲学者

2件の記録
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年6月20日読み終わった石川県にある西田幾多郎記念哲学館に行ったことがある。コンクリートと光と経年でつくられる、硬質でどこか神さびた詩情のある安藤忠雄建築が、町を見下ろす小高い丘で静かに佇んでいる。展示は西田幾多郎の哲学というより人生録にフォーカスが当たり、手紙や日記が面白い。レコードに吹き込まれた西田幾多郎の声も聴ける。ミーハーなのでミュージアムショップで「無」と書かれたTシャツを買った。 西田幾多郎は太平洋戦争中、軍部からの要請に応えて大東亜共栄圏を理論的に補強する「世界新秩序の原理」を書いている。京都学派の弟子にあたる田辺元、三木清らもまた軍に協力し、日本の戦争を思想的に後押しした。そしてこうした戦争協力にもかかわらず、京都学派は読まれ、研究の対象になり、Tシャツが買われている。 もちろん京都学派の戦争協力は一貫して批判の対象になっている。ハイデガーやシュミットのナチス協力もずっと問題になっている。彼らが講義や一般書に現れるときにはしばしば〈彼らにはナチス協力という問題があるが〉というような留保がついてまわる。しかし、だからといってハイデガーやシュミットを消去することもまたできない。大きなものはその追放がむずかしい。 (イヴォンヌ・シェラットの本のなかではフレーゲの反ユダヤ的言説やヒトラーへ示した崇敬も批判の対象になっていたが、分析哲学や数理論理学の世界でフレーゲのそうした面が問題にされるのかはよく知らない。でもナチスへの公的な協力と、個人的な偏見を持ってそれを仲間内で披露することは、すこし性質が違うようにも思われる) この本の最終部でニュルンベルク裁判後の哲学者たちが次々に表舞台に帰っていくさまが描かれる。そしてまた追放されたユダヤ系の学者たちが結局帰っていく場所を持つことをできなかったことも描かれる。それは哲学がうまく有罪になることができなかったということでもある。ナチスの行動は哲学と哲学者に支えられていたが、哲学者はその責任を引き受けることができなかった。 責任というのはかなりフィクショナルなもので、本質的には見なしの問題だ。ある事柄の有責性について、どのような見なしを責任の関係者と共有できるかという物語の生成の問題だ。そこには複数の観点があり、時には観点同士の闘争がある。だから観点を言語操作のテクニックによって統御する哲学は、責任をずらし、逃れていくことについて、とても相性がいい面を持っている。 本の終盤に登場するアイヒマン裁判の話がある。アーレントのよく知られた「悪の凡庸さ」のストーリーが、アイヒマンの供述にある定言命法の我流の解釈を黙殺することで成立している、という話は興味深かった。職場風の書類システムが悪の実行を軽くさせ、凡庸な仕事人が大きな悪を動かすことに加担してしまうというアーレントの議論に対し、シェラットはアイヒマンがカントの定言命法に基づいて、つまりドイツ観念論伝統の道徳哲学に従って(悪の)行為をした、と供述している点を重視する。アイヒマンの供述をそのまま受け取るなら、そこに思想は不在だったのではなく、むしろ思想が行為を基礎づけたということになる。 シェラットは一貫して、たとえ誤読や無理筋の解釈であったとしても、悪の背景に〈哲学〉があり、〈哲学〉が悪を後押ししてしまったことを問題にしている。人は何も考えないのではなく、何かを考えている。あるいは、あとから自分の行為を、なんらかの考えに基づいたものだったのだと物語化する。その物語化のなかで、責任や責任の不在が、時には事後的に生成する。それは悪が知性の不在からやってくる、というような立場とはすこし違うものだ。シェラットはヒトラーやローゼンベルク、ボイムラーらの知的素養を明らかに劣ったものないし邪悪なものとして描写しているけれど、一方で、彼らの行動がある種の知的伝統の継承に基づいていることも描いている。 自分が容認できないものにも、時に自分が愛するものが紛れ込んでいる。愛するものに、時に容認できないものが紛れ込んでいるように。私はその紛れ込みにむしろ目をひかれてしまう。
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年6月13日読んでる大学で倫理学の講義を受けていたとき、雑談のなかである倫理学者のエピソードを聞いた。細部はうろ覚えなのだけど、たしかその倫理学者は、私生活においてけっこう倫理にもとる、のみならず法的にさえ問題がある振る舞いを繰り返し、人に、倫理学者であるあなたがなぜそのような行為をするのかと問われた。倫理学者は答えた。「いいですか、自分の示した方向に進む道路標識というものはありません」…… 単なる開き直りを多少のユーモアで粉飾したといえばそれだけなのだけど、好きな話だった。この倫理学者の名前は講義のなかでたしかに挙げられた。でも残念なことに覚えていない。本を読んでいたらいつかこのエピソードにまたどこかで出会えるかもしれない、という期待がすこしある。 ともかく、真実や善を研究するからといって、べつに哲学者が善人であるわけではない、というのは、哲学者の伝記を多少読めばわりとわかることだ。だいたいの哲学者には利己的だったり、子供じみていたり、狭量だったり、問題のある振る舞いをしていたりするエピソードがある。哲学者は真理や道徳や、存在や認識についてのテクニカルな概念操作には長けているにせよ、そうした知的能力と一個人としての振る舞いはあるていど別のものだ(もちろん、哲学者は一般的に悪人である、というわけでもない)。 「哲学者は普通、別世界の人間、天上の霊気(エーテル)のようなものに夢中になっている僧侶のような存在だと思われている」とイヴォンヌ・シェラットは書く。そして「抽象的な思考に我を忘れ、象牙の塔に暮らすように見え、あたりまえの、利己的関心など超越しているとみられている」と続ける。 それが偏見であることを私は知っている。でも、哲学者は、自分の哲学と自分の実存に、あるていどの整合性をつけようとすることも知っている(というよりも、自分の実存から染み出てくるようなものとしてしか〈自分の哲学〉はできない、というほうが近いかもしれない)。だから哲学者のナチス協力については興味があった。 ヒトラー自身の哲学への愛好を含む、ナチスに協力した哲学者たちを扱う第一部をひとまず読み終わって、これからナチスの敵となった哲学者たち(ベンヤミン、アドルノ、アーレント)を扱う第二部に入る。文体は思っていたよりもずいぶん小説的で、19世紀末から20世紀前半のドイツの情景描写に満ちている。でも学者流の対象への冷静な距離感があって、日記や手紙のような客観的な資料がある場合を除いて、人物の内面にはほとんど立ち入らないし、分析もしない。 だからハイデガーのナチス協力が彼の哲学の必然的な帰結だったとか、シュミットによるナチスの法哲学の整備にはこんな動機があっただろうとか、そういった話への踏み込みは、豊富な情景描写と裏腹にとても淡泊だ。ナチスと哲学の共犯関係の理由は、結局のところ大きくて重々しい謎が解かれるような形では明らかにならない。むしろそこにあるのはきわめて俗に解釈されたダーウィニズムの流行、類比によって拡張されてしまった進化論、フィヒテやカントの平凡なユダヤ人嫌悪、大学のポストをめぐる出世争いといった、人間存在の凡庸な矮小さだ。それはどこか肩透かしではあるし、一方である種の真実味がある。 本文のスタイルを「ドキュメンタリー・ドラマ」仕立てだとシェラットが言うように、登場する人物たちの経歴や振る舞いはドラマティックだ。そしてドキュメンタリーフィルムに写しきれないものがあるように、それなりの謎もまた残る。するとその謎を、読者はなんとなく補完しようとしてしまう。補完は想像による。でもその想像を補強するのは、読者自身の来歴や出会ってきた人との思い出だ。そしてドラマの登場人物は、本来知らないはずなのに、どこかで読者自身の過去と響き合う、奇妙に思い入れのあるものになってしまう。 人は悪にも共感してしまう。人には悪の思い出があるからだ。権力争いで上位に立つために人種差別に加担して同僚や師を追放したと聞けば、それはきわめて悪いことだと言えるし、醜いこと、すべきでないことだと言える。でも一方で、大学にポストを持ち、自分の研究に打ち込み、そのうえで暮らしを安定させることがどれだけ困難で、どれだけ憧れることかを聞いたことがあれば、自分の欲するポストにたどりつくまでの長い順番待ちの列を飛び越えられる魅惑について、その引力に共感しないことは難しいだろう(もちろん、悪に共感することと、実際に悪をなすのは別のことだとしても)。 その共感は空想にすぎない。でもあきらかにナチスの行為を告発し、哲学者たちの協力を咎めようとしているこの本で、その当の哲学者たちへの共感が生まれてしまう。ドキュメンタリー・ドラマというスタイルが、むしろ邪悪さを描くことをむずかしくしていることは、とても興味深い。 ヒトラーのにわか哲学趣味を、シェラットはわりと嘲弄的に描く。その誤読や、稚拙な哲学的能力や、引用の失敗を描く。でもその嘲弄は、自分のような、にわか哲学趣味を持っている人間にとってそれなりにこたえるものだ。私はヒトラーではない。だれもヒトラーになってはいけない。にもかかわらず、ヒトラーの愚かさが私のなかにもあるのだということを感じて、かなりのところ苦しく思う第一部だった。 軽く目を通した感じでは、第二部はかなり読みやすい。それは第二部が犠牲者、被害者の話だからだろう。被害者のドキュメンタリーは加害者のドキュメンタリーよりも読みやすい。でもその読みやすさには、すこし警戒しなくてはならないものがあるだろう。