
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年6月13日

ヒトラーと哲学者
イヴォンヌ・シェラット,
三ッ木道夫,
大久保友博
読んでる
大学で倫理学の講義を受けていたとき、雑談のなかである倫理学者のエピソードを聞いた。細部はうろ覚えなのだけど、たしかその倫理学者は、私生活においてけっこう倫理にもとる、のみならず法的にさえ問題がある振る舞いを繰り返し、人に、倫理学者であるあなたがなぜそのような行為をするのかと問われた。倫理学者は答えた。「いいですか、自分の示した方向に進む道路標識というものはありません」……
単なる開き直りを多少のユーモアで粉飾したといえばそれだけなのだけど、好きな話だった。この倫理学者の名前は講義のなかでたしかに挙げられた。でも残念なことに覚えていない。本を読んでいたらいつかこのエピソードにまたどこかで出会えるかもしれない、という期待がすこしある。
ともかく、真実や善を研究するからといって、べつに哲学者が善人であるわけではない、というのは、哲学者の伝記を多少読めばわりとわかることだ。だいたいの哲学者には利己的だったり、子供じみていたり、狭量だったり、問題のある振る舞いをしていたりするエピソードがある。哲学者は真理や道徳や、存在や認識についてのテクニカルな概念操作には長けているにせよ、そうした知的能力と一個人としての振る舞いはあるていど別のものだ(もちろん、哲学者は一般的に悪人である、というわけでもない)。
「哲学者は普通、別世界の人間、天上の霊気(エーテル)のようなものに夢中になっている僧侶のような存在だと思われている」とイヴォンヌ・シェラットは書く。そして「抽象的な思考に我を忘れ、象牙の塔に暮らすように見え、あたりまえの、利己的関心など超越しているとみられている」と続ける。
それが偏見であることを私は知っている。でも、哲学者は、自分の哲学と自分の実存に、あるていどの整合性をつけようとすることも知っている(というよりも、自分の実存から染み出てくるようなものとしてしか〈自分の哲学〉はできない、というほうが近いかもしれない)。だから哲学者のナチス協力については興味があった。
ヒトラー自身の哲学への愛好を含む、ナチスに協力した哲学者たちを扱う第一部をひとまず読み終わって、これからナチスの敵となった哲学者たち(ベンヤミン、アドルノ、アーレント)を扱う第二部に入る。文体は思っていたよりもずいぶん小説的で、19世紀末から20世紀前半のドイツの情景描写に満ちている。でも学者流の対象への冷静な距離感があって、日記や手紙のような客観的な資料がある場合を除いて、人物の内面にはほとんど立ち入らないし、分析もしない。
だからハイデガーのナチス協力が彼の哲学の必然的な帰結だったとか、シュミットによるナチスの法哲学の整備にはこんな動機があっただろうとか、そういった話への踏み込みは、豊富な情景描写と裏腹にとても淡泊だ。ナチスと哲学の共犯関係の理由は、結局のところ大きくて重々しい謎が解かれるような形では明らかにならない。むしろそこにあるのはきわめて俗に解釈されたダーウィニズムの流行、類比によって拡張されてしまった進化論、フィヒテやカントの平凡なユダヤ人嫌悪、大学のポストをめぐる出世争いといった、人間存在の凡庸な矮小さだ。それはどこか肩透かしではあるし、一方である種の真実味がある。
本文のスタイルを「ドキュメンタリー・ドラマ」仕立てだとシェラットが言うように、登場する人物たちの経歴や振る舞いはドラマティックだ。そしてドキュメンタリーフィルムに写しきれないものがあるように、それなりの謎もまた残る。するとその謎を、読者はなんとなく補完しようとしてしまう。補完は想像による。でもその想像を補強するのは、読者自身の来歴や出会ってきた人との思い出だ。そしてドラマの登場人物は、本来知らないはずなのに、どこかで読者自身の過去と響き合う、奇妙に思い入れのあるものになってしまう。
人は悪にも共感してしまう。人には悪の思い出があるからだ。権力争いで上位に立つために人種差別に加担して同僚や師を追放したと聞けば、それはきわめて悪いことだと言えるし、醜いこと、すべきでないことだと言える。でも一方で、大学にポストを持ち、自分の研究に打ち込み、そのうえで暮らしを安定させることがどれだけ困難で、どれだけ憧れることかを聞いたことがあれば、自分の欲するポストにたどりつくまでの長い順番待ちの列を飛び越えられる魅惑について、その引力に共感しないことは難しいだろう(もちろん、悪に共感することと、実際に悪をなすのは別のことだとしても)。
その共感は空想にすぎない。でもあきらかにナチスの行為を告発し、哲学者たちの協力を咎めようとしているこの本で、その当の哲学者たちへの共感が生まれてしまう。ドキュメンタリー・ドラマというスタイルが、むしろ邪悪さを描くことをむずかしくしていることは、とても興味深い。
ヒトラーのにわか哲学趣味を、シェラットはわりと嘲弄的に描く。その誤読や、稚拙な哲学的能力や、引用の失敗を描く。でもその嘲弄は、自分のような、にわか哲学趣味を持っている人間にとってそれなりにこたえるものだ。私はヒトラーではない。だれもヒトラーになってはいけない。にもかかわらず、ヒトラーの愚かさが私のなかにもあるのだということを感じて、かなりのところ苦しく思う第一部だった。
軽く目を通した感じでは、第二部はかなり読みやすい。それは第二部が犠牲者、被害者の話だからだろう。被害者のドキュメンタリーは加害者のドキュメンタリーよりも読みやすい。でもその読みやすさには、すこし警戒しなくてはならないものがあるだろう。




