極限の思想 バタイユ エコノミーと贈与
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ジクロロ@jirowcrew2025年10月19日読んでる「こうした表現は主体の企図に従った行為ではない。なぜなら、それは表現せざるをえないという仕方でなされるからである。このように、至高者のコミュニケーションとしての「表現」とは自己を「外へと押し出す」ことであり、「脱自」なのである。 …… なぜバタイユは書いたのか。それは書かざるをえなかったからである。そして、バタイユの書いたものを読んだ者が書くことへと促されるとき、あるいは、書かざるをえなくなるとき、バタイユの表現は初めて贈与となるのである。」 p.314- 表現せざるをえない、書かざるをえないというのは 自己のの内側に生じた余剰であり、誤配を恐れずにそれを外へ押し出すこと、それが贈与であると言える。 贈与は、それが贈与であるとはわからない。それは完全には消化しきれない。そしてそれは受け取ってしまったものにまた別の表現を求め、次の人へ、次の世代へと託される。
ジクロロ@jirowcrew2025年10月15日読んでる「生産的な否定性(労働)が自然を領有していく度ごとに、その背後で生産的ではない(使い途のない)否定性が発生している。それは何も産み出さず、ただ解体するだけの浪費であるから、生産的なエコノミーからは排除され隠蔽されている。しかし、歴史の終焉において、否定性がもはや何もなすことがなくなるとき、それまで世界の昏い底で蠢いていた使い途のない否定性が露わになるのである。」 p.260

