道徳的に考えるとはどういうことか
4件の記録
ゆげの@hoochaa2026年4月9日買った読み終わったタイトルに気を引かれたのと、著者がウィトゲンシュタイン研究者だったので、買った(最近ウィトゲンシュタインに興味を示しているため)。 7割くらいまでは硬めの文章だったのに、終盤で槇原敬之の楽曲を考察していて面白かった。 p.122あたりの内容が新鮮だった。以下のように解釈した。 --------- 通常通りに解釈すると一見とんちんかんに思える主張があった場合、それは単に的外れなことを言っているのではない可能性がある。 というのも、既存の言語体系では十分に形作られていない新しい感情や概念を伝えようとする際、現在流通している言葉で無理に表現しようとすると、どうしても奇妙な言い方になってしまうことがあるからだ。 そのようなとき、その主張を「?よくわからん」と切り捨てるのではなく、どのような前提・背景・捉え方を採用すればその主張が論理的に成立するのかを考えることで、話し手が本当に伝えたい内容が浮かび上がってくる。 --------- 私はこれまで、言語化を「考えていることの魚拓を取る」程度の単純な手続きとして捉えていた。そのため、奇妙な魚拓を見た場合には「うまく写し取れなかったのだろう」と考えるにとどまっていた。 しかし、上記のように考えるならば、「このような奇妙な魚拓にならざるを得なかった魚とはどのようなものか」と逆算的に想像することになるのだろう。 ここまで書いて、自分がただただ冷たい人間に見える恐れがあることに気づいたため、補足しておきたい。 ここでいう「とんちんかん」とは、単に語彙や表現のレパートリー、あるいは文法知識の不足によって生じるものを指しているのではない。この種の「とんちんかん」に対して「?よくわからなん」と切り捨てるのであれば、それは単なる不親切な奴になってしまう。 ここで問題にしているのは、むしろ対象となる概念自体が十分に人々および言語体系に共有されておらず、既存の言語では表現することが論理的に不可能であることに由来する「とんちんかん」である。 後者(不可能ゆえのとんちんかん)の場合、受け手に求められる想像力は前者(表現力不足ゆえのとんちんかん)とは質的に次元が異なる。 前者(表現力不足ゆえのとんちんかん)であれば、語彙や短い文単位でのすり合わせを通じて理解に到達できるだろう。 しかし、後者(不可能ゆえのとんちんかん)の場合は語の意味に依拠した調整だけでは原理的に理解に至らない。話し手の思想や背後にある物語全体を把握し、それらを統合し、全体が整合するようなモデルを構築するような想像力が必要になると思われる。 また、「うまく表現できない」と感じている話し手の多くが、自分が前者と後者のどちらの「とんちんかん」に陥っているのかを自覚できないだろうことも、より一層の厄介さを生むと思う……。

