未完の西郷隆盛

未完の西郷隆盛
未完の西郷隆盛
先崎彰容
新潮社
2017年12月22日
4件の記録
  • おけら
    おけら
    @atsushi-1227
    2026年7月8日
    150年目のバグと、合一する二つの精神 ​先崎彰容は『未完の西郷隆盛』において、近代日本が直面し、そして未だに解くことができずにいる最大の精神的バグを抉り出している。それは、私たちが「西郷隆盛という存在をいまだ統合できずにいる」という事実だ。 ​私たちは明治維新以来、大久保利通の「冷徹なリアリズム(近代化システム)」と、西郷隆盛の「不義を許さない道義(精神性)」の引き裂かれ(二元論)の中に生きてきた。大久保をとれば西郷は情念の逆賊となり、西郷をとれば大久保は冷酷な官僚機構の独裁者となる。この不毛なプロレスが、日本人が「近代」という硬いシステムの中で、主体的で生きた精神を窒息させ続けてきた根本原因に他ならない。 ​この窒息のプロセスを、江藤淳は『南洲残影』の中で、大久保の作った冷酷な近代システムに対する西郷の命を賭けた「批評(拒絶)」として描いた。西郷は、システムが人間を飼い慣らし、やがて自立した思考を奪っていく未来に絶望し、死に赴いた。江藤が哀惜を込めて見つめた西郷の「残影」とは、システムに過剰順応していく日本人の底流に、奇跡的に取り残された「最後の良心(違和感)」そのものだった。 ​現代の私たちが直面している「国家のバグ」――国旗毀損罪や議員定数削減といった、伝統や改革という美しい「看板」を使った統治エリートによる生存戦略(ハック)――を前にしたとき、この150年未完だったパズルは、解決(ブレイクスルー)を迎える。 ​大久保のリアリズムと西郷の道義は、対立するものではない。現代の見えない檻を壊すための「両輪」なのだ。 ​マルセル・ディルサス流の「システムを冷徹に見通す目」を持たない、単なる西郷流の「道義」は、洗練された現代の独裁技術の前には単なる感情的な暴発として処理され、左右の泥仕合に消費されてしまう。 逆に、何のために生きるのかという西郷流の「至誠」を持たない、単なる大久保流の「リアリズム」は、エーリッヒ・フロムが警告した「過剰に順応し、自分で考えることを放棄した自動人形(ロボット)」のまま、効率的な管理社会に飼い慣らされる狂気へと至る。 ​お上の用意した偽りの正論を疑う、西郷の至誠(動機)。 その裏にある利権の力学をロジックで解剖する、大久保の冷徹(武器)。 ​私たちは、江藤が惜しんだ「残影」を、単なるノスタルジーのまま眠らせておいてはならない。ディルサスとフロムという現代の補助線を得て、その影を、お上のプログラミングを切り裂く具体的な「知性(正気)」へと鍛え直すのだ。 ​先崎氏が描いた「未完の西郷」は、現代のシステム論を経て、初めて私たちの内で完結する。お上のプログラミングに決してハックされない「真に自立した日本人の知性」は、この二つの精神が合一した、その砦の上にしか存在しない。 ​引き裂かれた二人の魂は今、150年の時を経て、私たちの時代を切り開く一振りの刀となる。
  • 遠亜
    遠亜
    @toa_bookworm
    2026年4月12日
    いやぁー、難しかった。 やっぱり先崎さんの作品は難しい。 背景知識が膨大すぎて、その前提知識に乏しいまま読むと、置いてけぼりになってしまう。 それでも食らいついて頑張って読んでいくことで、すこしずつ、背景知識を自分のなかに蓄積していけるんじゃないかな、と思っている。 そういう風に読むような本。 西郷隆盛のこと。 知ってるようで、意外と知らないことが多いんだなぁと、読んでいて痛感した。 そしてやはり、今の日本の状況を知るためには、明治維新からの「近代」を文学をとおして学んでいくのが一番なんだなぁ、と思います。
  • ゴロンたん
    ゴロンたん
    @gorontan
    2025年8月11日
  • ゴロンたん
    ゴロンたん
    @gorontan
    2025年8月10日
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