現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む
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柿内正午@kakisiesta2026年3月24日人間が生存のために相対するものとして、非人間的なアクターの束としての自然と、ほかの人間たちの集合としての社会というものがある。ルソーのような夢想を援用して、「自然人」のようなものたちは自生する果物や木の実を気ままに食べて、好きな人たちと好きなようにやっていたとしよう。ここでは、欲望と行為が直結している。やりたいようにやって、すぐに享受する。「自然人」の外界との関係のありようは、他の動物と変わらない。物質代謝に遅延がない。 しかし、人間は労働することを発見する。畑を耕し作物を育てると、森に探しに行くよりももっとたくさんの食べ物が安定して手に入る。こりゃすごい。さらには、そうやって蓄えた作物をべつの物品と交換することさえできるようになる。もうなんでも手に入る。最高! しかし最高はつねに最低と抱き合わせで、これまでは行為即ち欲望の充足であったのに対し、労働とは欲望の充足の先延ばしでもある。つまり、いま食べたいのを我慢して種を植えるのだ。あるいは、着たい服を直接作るのではなく、食べ物が欲しいから交換手段として服を作るようになる。このような欲望の充足の先延ばしは、かつてはそれ自体が享受の喜びと直結していた行為から喜びが切り離される。労働は、いつかの享受のために我慢して行うしんどくつまらないものになる。このような先延ばしは、洪水や疫病のような災害や、侵略や略奪のような脅威を心配する必要もつれてくる。植えた種は実らないかもしれないし、作った服は売れないかもしれない。すぐさま嬉しいわけではない、いつかの嬉しさのために我慢して行っていることが、じっさいに報われる保証はないわけだ。 人間の対他関係は、このように即時的な享受ではなく、より複雑で大きな喜びを得るために発展して行った結果、労働や流通といった媒介なしにはありえなくなっていく。さらには、享受のための手段であったはずの媒介の方こそが目的になってしまうようなことさえありふれた。共同態ゲマインシャフトから集合態ゲゼルシャフトへという変化は、「それでよければそれでよい」という顔の見える範囲での無媒介で人格的な交換関係から、敵対さえしかねない他人同士の利害の絶え間ない調整としての市場を媒介とした非人格的な交換関係へのシフトである。これはしかし経済だけの話でもない。対他的な関係を媒介するのは「貨幣」だけではないのである。 2026.03.24
