いのちを呼びさますもの ―ひとのこころとからだ―

1件の記録
萌英@moenohon2025年10月19日読んでる私だけでなく、どんな人でも命がけの時代を経て、今を生きている。誰ひとりとして例外はない。赤ちゃんとして生まれてきた時は、誰もが圧倒的に弱い存在だった。誰かに守られ、大切にされないと生きていることすら保てなかったはずなのだ。今、生きているということは、誰もがそうした時代を経て、生き残っているということの証でもある。 ただ、多くの人はそのことを忘れてしまっている。赤ちゃんや子どもを見て、そこに過去の自分を重ね合わせてみることは、忘れてしまった自分の来歴を思い出すためにも重要なことだ。 「自分」という存在は、思っている以上に広く深く大きな存在で、なかなかその全体像は見えにくい。頭の先から足の先まで、体の表面から内臓まで、起きている時から寝ている時まで、生まれ落ちてから死んでゆくまでを含んでいて、人類という種や、生命という流れ全体をも含んでいる。 生後すぐや数日で命を落とす場合もあれば、病気で亡くなる子どももいるし、複雑な病や障がいを多数抱えながら生きている人もいる。困難に直面し、どうしようもない大きな運命に流されるような人生を垣間見ると、ふとそうした人間の生命現象の根本について考えざるを得なくなる。 だからこそ日々の診療では、体だけを診るのではなく、心や命そのものと向き合ってきたつもりだ。自己満足かもしれないが、そう思って取り組まないと、自分自身とも折り合いがつかない。 今一度、自分自身にとって「健康」とは何か、「健康な状態」とはどういうものかを考えてみた。それは、生きる実感と生きる喜びを自然に感じている時だ。そして、周囲の人々に対して、「ありがたい」という思いが自然にふつふつと湧き起こる時でもある。 私の場合、子どもの頃は思うように体が動かず、何かをすればすぐ熱を出し、寝て過ごすだけの日も多かった。でも、そうした体の不自由さ以上に、精一杯、日々を生きていた。 誰かを恨むこともなく、誰かのせいにすることもなく、与えられた条件をまるごと受け止めながら。痛かったり苦しかったことも多かったが、すべてをありのまま受け入れ、全身全霊で生きていた。毎日が生きている実感にあふれていた。そして、同時に、周りの人々のおかげでこうして生きているのだと、どこから湧いてくるのかわからない感謝や幸福感で心は満ちていた。 傍目には、病気に苦しむかわいそうな子どもに見えたかもしれないが、自分にとっては心も体も満たされていたのだと思うし、そうした過去の自分の体験や記憶が、今の自分の「健康」への基準になっていることにも気づく。 今、私は生きていることを強く感じている。それは自分自身の力だけではなく、周囲からのあらゆる協力のおかげであることも同時に強く実感している。こうした心身の状態が、私にとっての「健康」だ。そうでない時は、生きている実感が持てないし、誰かを思いやる余裕もない。