moenohon "いのちを呼びさますもの ―ひ..." 2026年1月8日

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@reading0104
2026年1月8日
いのちを呼びさますもの ―ひとのこころとからだ―
私だけでなく、どんな人でも命がけの時代を経て、今を生きている。誰ひとりとして例外はない。赤ちゃんとして生まれてきた時は、誰もが圧倒的に弱い存在だった。誰かに守られ、大切にされないと生きていることすら保てなかったはずなのだ。今、生きているということは、誰もがそうした時代を経て、生き残っているということの証でもある。 ただ、多くの人はそのことを忘れてしまっている。赤ちゃんや子どもを見て、そこに過去の自分を重ね合わせてみることは、忘れてしまった自分の来歴を思い出すためにも重要なことだ。 「自分」という存在は、思っている以上に広く深く大きな存在で、なかなかその全体像は見えにくい。頭の先から足の先まで、体の表面から内臓まで、起きている時から寝ている時まで、生まれ落ちてから死んでゆくまでを含んでいて、人類という種や、生命という流れ全体をも含んでいる。 生後すぐや数日で命を落とす場合もあれば、病気で亡くなる子どももいるし、複雑な病や障がいを多数抱えながら生きている人もいる。困難に直面し、どうしようもない大きな運命に流されるような人生を垣間見ると、ふとそうした人間の生命現象の根本について考えざるを得なくなる。 だからこそ日々の診療では、体だけを診るのではなく、心や命そのものと向き合ってきたつもりだ。自己満足かもしれないが、そう思って取り組まないと、自分自身とも折り合いがつかない。 今一度、自分自身にとって「健康」とは何か、「健康な状態」とはどういうものかを考えてみた。それは、生きる実感と生きる喜びを自然に感じている時だ。そして、周囲の人々に対して、「ありがたい」という思いが自然にふつふつと湧き起こる時でもある。 私の場合、子どもの頃は思うように体が動かず、何かをすればすぐ熱を出し、寝て過ごすだけの日も多かった。でも、そうした体の不自由さ以上に、精一杯、日々を生きていた。 誰かを恨むこともなく、誰かのせいにすることもなく、与えられた条件をまるごと受け止めながら。痛かったり苦しかったことも多かったが、すべてをありのまま受け入れ、全身全霊で生きていた。毎日が生きている実感にあふれていた。そして、同時に、周りの人々のおかげでこうして生きているのだと、どこから湧いてくるのかわからない感謝や幸福感で心は満ちていた。 傍目には、病気に苦しむかわいそうな子どもに見えたかもしれないが、自分にとっては心も体も満たされていたのだと思うし、そうした過去の自分の体験や記憶が、今の自分の「健康」への基準になっていることにも気づく。 今、私は生きていることを強く感じている。それは自分自身の力だけではなく、周囲からのあらゆる協力のおかげであることも同時に強く実感している。こうした心身の状態が、私にとっての「健康」だ。そうでない時は、生きている実感が持てないし、誰かを思いやる余裕もない。 相対立する矛盾や葛藤が同居できるだけの器が自分の中にないと、ありのままを受け入れることはできないかもしれない。プラスもマイナスも見るだけの認識の幅の広さがないと、自分の都合のいいように物事を一面的にしか見ることができないだろう。 自分にとって大事な問題だからこそ、拒絶反応が起きるのだ。自分に見えない部分は鏡に映せば見ることができるように、見えない心も、外の世界に「投影」することで見ることができる。  例えば、人間関係において、誰かに嫌悪感を感じたり、イライラしたとする。その時、相手に何かしらの非があるのだと思いがちだが、大事なことはそうではない。相手は、自分の奥底にしまっていた感情を引き起こしたきっかけの存在にすぎず、自分が何に反応してイライラしているのか、相手に感じた嫌悪感の中に自分自身の内側にある問題を発見することができるだろう。  気づくべき、解決すべき問題は、自分自身の中にある。いくら外を探しても見つからない。自分の影を投影した相手の中に自分自身の一部を見出し、そこに自分の影を発見しなければ、新しい認識を得ることなく問題が先送りされることになる。  結局、人は影として拒んだものと、深く関わることになる。もっとも重要な人生のテーマは自己認識であり、「わたし」を知ることなのだ。「わたし」という存在が持っている、表層の自我だけではなく深層の自己をも含んだ「わたし」を発見することこそが大事なのだ。 だからこそ、病や症状をきっかけとして行動の変化を強いられた場合は、その意味を真剣に受け止める必要がある。大抵は、本来のあるべきところへ戻そうとする体からの要請である。しかしそれはせっかくの体からの修正行為であるにもかかわらず、ありとあらゆる手段を使って頭が無かったことにして押さえつけてしまう。症状などの身体言語と対話して、伝えたいことの本質を受け取り、体が伝えたい真の意味に近づいていくことが大切なのだ。 かつては誰もが本当にまっさらな目で偏見なく対象そのものを見ていたはずなのだ。「子ども性」という過去の自分が持っていた力を失った時、その過去の自分を含めた全体性を取り戻すためにも芸術は存在している。心の原始ともいうべき、子どもの時の感性でもう一度世界と出会うためにも芸術はある。 一日一日を違う日として生きることは、過去の自分が抱えていた葛藤や矛盾を、現在の自分が新しい視点で見直し、未来の自分へと受け渡していくことでもある。
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