キリスト教の修練

キリスト教の修練
キリスト教の修練
S.キルケゴール
井上良雄
新教出版社
2004年12月1日
1件の記録
  • jirowcrew
    jirowcrew
    @jirowcrew
    2025年11月18日
    「自己自身になるということは、つまり、その場所での運動にほかならない。生成することは、その場所からの運動である、しかし、自己自身になることは、その場所での運動なのである。 …… 自己が可能性のなかをさまよい歩くのは、単に力不足なのではない。そこに欠けているものは、実は、服従する力なのである。すなわち、自分の自己のうちにある必然的なもの、これは、自己の限界とも呼ばれるべきものであるが、この必然的なものに頭をさげる力なのである。」 その場所「での」運動とは、 自己の限界を突き詰め、最終的に絶望に至ることである。 しかし絶望まで至らず、 場所「からの」運動に移ろってしまう、 人間の弱さ。 可能性に溺れる人間と、 絶望から必然を開く人間と。 「終わった」と思われたところが、 実は始まりでもなかったということがある。 そしてそういったことは、 終わらずにのうのうと生きている現在に 惨めさを感じながら眺める過去にしかない。
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