
jirowcrew
@jirowcrew
2025年11月18日

キリスト教の修練
S.キルケゴール,
井上良雄
読み終わった
「自己自身になるということは、つまり、その場所での運動にほかならない。生成することは、その場所からの運動である、しかし、自己自身になることは、その場所での運動なのである。
……
自己が可能性のなかをさまよい歩くのは、単に力不足なのではない。そこに欠けているものは、実は、服従する力なのである。すなわち、自分の自己のうちにある必然的なもの、これは、自己の限界とも呼ばれるべきものであるが、この必然的なものに頭をさげる力なのである。」
その場所「での」運動とは、
自己の限界を突き詰め、最終的に絶望に至ることである。
しかし絶望まで至らず、
場所「からの」運動に移ろってしまう、
人間の弱さ。
可能性に溺れる人間と、
絶望から必然を開く人間と。
「終わった」と思われたところが、
実は始まりでもなかったということがある。
そしてそういったことは、
終わらずにのうのうと生きている現在に
惨めさを感じながら眺める過去にしかない。
