
かわいいペンギン
@DMK_penguin
2026年3月3日
熊になったわたし 人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる
ナスターシャ・マルタン,
大石侑香,
高野優
読み終わった
「〈世界との関係の変質〉ーこれは〈狂気〉のことを学術的に述べた言い方だ。では、狂気とは何か?それは私たちと外部との境界が、少しずつ、あるいは一瞬にしてなくなってしまうことだ。まるで夢の時間の深みに降りて、自分が徐々に溶けていくように。すべての存在の境界が流動的で、安定した存在などひとつもなく、あらゆるものになることがまだ可能なーそんな夢の時間の深みに降りて、自分が溶けていくように。だが、もしそうなら、私は狂気に捉われているのだろうか?」(pp.155-156)
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この本は、カムチャツカ半島の森の中で暮らすエヴェン人の家族の元でフィールドワークをおこなったフランスの人類学者 ナスターシャ・マルタンのエッセーだ。
本書の解説にもあるとおり、この本はエヴェン人のアニミズムや熊信仰を体系的に説明するものではない。著者が熊に噛まれて生き延びたという体験を軸に、アラスカ(著者の以前の調査地)やエヴェンの人びとの生活習慣や思考様式をその身に取り込んでいるような文章と、動物、とくに熊が出てくる夢について分からなさを抱えながらフランスとカムチャツカを行き来する行動のなかで、著者が心身ともにメタモルフォーゼしていく過程が織り込まれているものである。
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本書の重要な要素の一つに、狂気と夢に関する言及がある。
著者がフランス人女性の一般的な人生の枠にはまらずに海外でフィールドワークをすること、熊に顔を噛まれたことをある種運命的なものとして捉えていること、自分のなかに熊性を感じていること、熊に噛まれたことで自分と外の世界の存在との境界を失ったように感じていること、動物の出てくる夢を自己の投影以外のものとして考えること。これらは現代ヨーロッパにおいては「狂気」の部類に入るに違いない。現代では夢は自己の内面の投影で、一人の人間は外の世界と境界を引いた個人だからだ。著者がフランス人ということもあってか、狂気について論じたフーコーをちらっとなんとなく思い出す。
一方、エヴェン人のダリア(著者の受入家庭の主人)は「「夜中に見たものが自己の投影であるとはかぎらないの。…(著者が見た夢は)外にいる者たちとつながる夢だから。私たちはそういった夢で外の世界にいる者たちとつながるの。」(p.151)と著者に語った。
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私は最初、エッセーを面白く読みつつも歯の間に小骨が引っかかったような気分で読み進めていた。それは、読み始めたときに著者の態度を誤解していたことと、自分自身かなり「西洋的」立場でものを考えていたからだ。
前者については、著者が熊に噛まれたことを重要視し、「半分人間で半分熊である」と考えていることを、「調査対象地の世界観を過度にインストールした、現地に被れた人類学者」と無意識に思っていた。後者については、「ヨーロッパ出身の人類学者が調査対象地の価値観でものを書いている。現地の人が現地の世界観で書くのは興味深いが、ヨーロッパ人が留保なしに書くと怖いし傲慢だ。」というものであった。
では、著者は調査協力者の人びとの思考様式に対して、実際にどのように向き合っている(と私が思い直した)のか。
著者がアラスカでフィールドワークを始めた時は、森林とそこで生きる動物の夢を見るようになった時、その状態を「人類学者になるために必要な共感能力が自分にも備わってきただけ」と考えていた。その世界を「そのようにあるもの」として生きておらず、「共感能力」によって彼らの世界観や思考を外側から把握しているような状態だった。つまり、この時点では調査協力者と他者として向き合っていた。
しかし、エヴェンの人びとのものに来て、毎日濃密な夢を見るようになってからは、「私は〈外の世界〉に棲みかをつくってしまったのだ。だから、獣たちの夢を見た。」(p.149)と、「そのようにあるもの」として本気で考えるようになった。著者はエヴェンの人びと暮らすなかで見つけた〈外の世界〉でメタモルフォーゼしているのである。
ただし、本書にはエヴェンの人びとの世界観や熊信仰について体系的には書かれていない。著者自身も夢や熊の解釈に悩んでいる。つまり、この著者の思考は、エヴェン人の影響を受けつつも彼らの世界観を完全に内面化しているわけでもない。彼女の今の状態は、「著者はエヴェン人と暮らしたことで、フランスとロシア*とエヴェンが著者のなかで独特に混ざり合った世界観に生きることになった」というものではないだろうか。著者はその混ざり合った世界からこの文章を書いていたのである。
*本書の書き振りから、エヴェン人はロシア語で著者とコミュニケーションをとっている。ソ連時代の集団化の経験もあり、エヴェンを通じてロシア的な世界観も入っているだろう。
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そうだとすると、「人類学する」とは、自分の身体のなかに、生まれ育った世界と調査で踏み入った世界、それに関連する世界を自分なりの調合で混ぜ合わせて、そこから世界を見る新たな目(理論、枠組み?)を見つけることなのかもしれない。ただしその配合は難しい。育った世界の割合が多すぎると「自分化中心的」になるだろうし、現地が多すぎると「ルポとしては良いかもしれないが理論的に不十分」と思われる可能性があるし、「それに関連する世界」(とりあえず人類学者たちのコミュニティや、人類学周辺分野の理論的議論を想定している)が多いと「ノスタルジー」と批判されてしまうだろう。私はとくに後者2つのことを言われた経験がある。
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この本は「書籍」というよりも、筆者の思考を書き出したノートみたいだった。作中でも調査中に書いていたという「ノート」への言及があったからだろうか、また、「章」らしい章分けがないからだろうか、そのようなイメージを持った。

