熊になったわたし 人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる
熊になったわたし 人類学者、シベリアで世界の狭間に生きる
ナスターシャ・マルタン
大石侑香
高野優
紀伊國屋書店
2025年4月25日
105件の記録
白玉庵@shfttg2026年3月14日読み終わった実際に起こったのは「熊と女が出会い、いくつもの境界が崩壊した」ということだ。(p180) ということを余すことなく表現したタイトルであり、表紙の絵だった。イニシエーションを経て観察者が当事者になり、シャーマンになる。 巻末の大石侑香さんの解説が、短いながらも要点をおさえてバッググラウンドを理解するのに大変助けになった。ここから読んでもいいのかもしれない。






白玉庵@shfttg2026年3月12日読んでる先行情報なしに、ただ本屋の店頭で丹野杏香さんの表紙が美しくて気になっていた。いきなりの幕開けにびっくり。でも、ここ最近読んだシベリア関連の本の中では一番好みにあっている。まさに!私が考えるフランス女!! 病院で10スケールで痛みを伝える有用性については私もよく分からない。10って…死ぬほど? ちょうど昨日調べていたギョーム・デュパルデューが出てきて驚いた。








ふみ@fumimi2026年3月10日読み終わった熊に齧られたことをきっかけに、人類学者である筆者は自分の内なる熊に気づく。自分という入れものの中に、重なって存在する人間と熊の部分と向き合い、言葉で形作っていく過程は、少し難解で読みづらさもあったけれど、興味深かった。






かわいいペンギン@DMK_penguin2026年3月3日読み終わった「〈世界との関係の変質〉ーこれは〈狂気〉のことを学術的に述べた言い方だ。では、狂気とは何か?それは私たちと外部との境界が、少しずつ、あるいは一瞬にしてなくなってしまうことだ。まるで夢の時間の深みに降りて、自分が徐々に溶けていくように。すべての存在の境界が流動的で、安定した存在などひとつもなく、あらゆるものになることがまだ可能なーそんな夢の時間の深みに降りて、自分が溶けていくように。だが、もしそうなら、私は狂気に捉われているのだろうか?」(pp.155-156) * この本は、カムチャツカ半島の森の中で暮らすエヴェン人の家族の元でフィールドワークをおこなったフランスの人類学者 ナスターシャ・マルタンのエッセーだ。 本書の解説にもあるとおり、この本はエヴェン人のアニミズムや熊信仰を体系的に説明するものではない。著者が熊に噛まれて生き延びたという体験を軸に、アラスカ(著者の以前の調査地)やエヴェンの人びとの生活習慣や思考様式をその身に取り込んでいるような文章と、動物、とくに熊が出てくる夢について分からなさを抱えながらフランスとカムチャツカを行き来する行動のなかで、著者が心身ともにメタモルフォーゼしていく過程が織り込まれているものである。 * 本書の重要な要素の一つに、狂気と夢に関する言及がある。 著者がフランス人女性の一般的な人生の枠にはまらずに海外でフィールドワークをすること、熊に顔を噛まれたことをある種運命的なものとして捉えていること、自分のなかに熊性を感じていること、熊に噛まれたことで自分と外の世界の存在との境界を失ったように感じていること、動物の出てくる夢を自己の投影以外のものとして考えること。これらは現代ヨーロッパにおいては「狂気」の部類に入るに違いない。現代では夢は自己の内面の投影で、一人の人間は外の世界と境界を引いた個人だからだ。著者がフランス人ということもあってか、狂気について論じたフーコーをちらっとなんとなく思い出す。 一方、エヴェン人のダリア(著者の受入家庭の主人)は「「夜中に見たものが自己の投影であるとはかぎらないの。…(著者が見た夢は)外にいる者たちとつながる夢だから。私たちはそういった夢で外の世界にいる者たちとつながるの。」(p.151)と著者に語った。 * 私は最初、エッセーを面白く読みつつも歯の間に小骨が引っかかったような気分で読み進めていた。それは、読み始めたときに著者の態度を誤解していたことと、自分自身かなり「西洋的」立場でものを考えていたからだ。 前者については、著者が熊に噛まれたことを重要視し、「半分人間で半分熊である」と考えていることを、「調査対象地の世界観を過度にインストールした、現地に被れた人類学者」と無意識に思っていた。後者については、「ヨーロッパ出身の人類学者が調査対象地の価値観でものを書いている。現地の人が現地の世界観で書くのは興味深いが、ヨーロッパ人が留保なしに書くと怖いし傲慢だ。」というものであった。 では、著者は調査協力者の人びとの思考様式に対して、実際にどのように向き合っている(と私が思い直した)のか。 著者がアラスカでフィールドワークを始めた時は、森林とそこで生きる動物の夢を見るようになった時、その状態を「人類学者になるために必要な共感能力が自分にも備わってきただけ」と考えていた。その世界を「そのようにあるもの」として生きておらず、「共感能力」によって彼らの世界観や思考を外側から把握しているような状態だった。つまり、この時点では調査協力者と他者として向き合っていた。 しかし、エヴェンの人びとのものに来て、毎日濃密な夢を見るようになってからは、「私は〈外の世界〉に棲みかをつくってしまったのだ。だから、獣たちの夢を見た。」(p.149)と、「そのようにあるもの」として本気で考えるようになった。著者はエヴェンの人びと暮らすなかで見つけた〈外の世界〉でメタモルフォーゼしているのである。 ただし、本書にはエヴェンの人びとの世界観や熊信仰について体系的には書かれていない。著者自身も夢や熊の解釈に悩んでいる。つまり、この著者の思考は、エヴェン人の影響を受けつつも彼らの世界観を完全に内面化しているわけでもない。彼女の今の状態は、「著者はエヴェン人と暮らしたことで、フランスとロシア*とエヴェンが著者のなかで独特に混ざり合った世界観に生きることになった」というものではないだろうか。著者はその混ざり合った世界からこの文章を書いていたのである。 *本書の書き振りから、エヴェン人はロシア語で著者とコミュニケーションをとっている。ソ連時代の集団化の経験もあり、エヴェンを通じてロシア的な世界観も入っているだろう。 * そうだとすると、「人類学する」とは、自分の身体のなかに、生まれ育った世界と調査で踏み入った世界、それに関連する世界を自分なりの調合で混ぜ合わせて、そこから世界を見る新たな目(理論、枠組み?)を見つけることなのかもしれない。ただしその配合は難しい。育った世界の割合が多すぎると「自分化中心的」になるだろうし、現地が多すぎると「ルポとしては良いかもしれないが理論的に不十分」と思われる可能性があるし、「それに関連する世界」(とりあえず人類学者たちのコミュニティや、人類学周辺分野の理論的議論を想定している)が多いと「ノスタルジー」と批判されてしまうだろう。私はとくに後者2つのことを言われた経験がある。 * この本は「書籍」というよりも、筆者の思考を書き出したノートみたいだった。作中でも調査中に書いていたという「ノート」への言及があったからだろうか、また、「章」らしい章分けがないからだろうか、そのようなイメージを持った。

07@cocoa0072026年1月13日熊に襲われて生き残った人間は半分人間、半分熊になる…エヴェン族の言い伝えを図らずも身をもって体験した人類学者の話。 この作者は、熊に襲われる以前から現代の西洋文明に違和感を感じていた節がある。そこに現代西洋文明とは真逆のシベリアの少数民族の思想が流れこんでくる。 熊に襲われる前に作者は繰り返し熊の夢を見ている。また、エヴェン人から「あなたは熊と引き寄せあっている」というようなことを言われる。 事前にこの予言めいた出来事がなければ、熊に襲われる体験は恐怖だけで塗り潰されていただろう。作者はエヴェン族の思想のおかげで、この恐ろしい体験を別の意味付けで捉え直すことができた。 しかしそれは同時に、現代文明からの逸脱を意味する。今の社会では、人間と自然、自己と他者に明確な線引きをすることが正気の証明で、熊と一体化してしまった作者は狂人のカテゴリになってしまうのだ。 彼女の居場所は現代社会にはなく、かと言って熊の住む自然の森に同化することもできない。 彼女は二つの世界の中間に立ち、別世界の存在を我々に教えることを仕事とする決意をした。 そうしてできたのが、この本だ。 狩猟民族の狩人は、獲物を捕らえる前夜に自分が獲物になる夢を見るという。また、矢を放つ瞬間に獲物の目から自分を見る狩人もいるという。殺す者、殺される者の同化が、そこにはある。 現代でこの狩人と類似した心理状態を、理屈による理解ではなく、体感的に再現した人間いたことに驚いた。 現代ではともすれば狂気とされてしまうこの感覚は、人間の中にまだある。科学文明に押しやられて、奥深くで眠っているだけなのだ。そう思わずにいられない内容だった。
ちびっこ@chibicco2025年12月22日読み終わった中盤から、自分の中に入り込んできた熊についての考察?が主になってきて、ところどころ理解できないところが出てきたのは私の知識などの受け皿が整っていないからだろうか。「今はまだ早い」本だったかもしれない。
旅するやまねこ舎@t_yamanekosha2025年12月20日読み終わった借りてきた@ 日吉の本だな(日吉図書取次所)1日で読了。 人類学者ナスターシャの体験記と読んでよいのだろうか⁉️ 2015年夏、フィールドワークに訪れたカムチャッカのクリュチェフスカヤ山中で熊と遭遇。至近距離で目が合い、一戦交えることに。一命は取りとめたものの重傷を負った。 にもかかわらず、治療も完全でないまま再訪。 一体なにが彼女をそれほどまでに駆り立てたのか⁇ また、自身が半分人間半分熊(「ミエトゥカ」)に変容したと自認し、そのことを肯定的に受け入れていると感じられるが、熊と相対した時に何を思ったのか、恐怖は感じなかったのか⁇ 謎が深まる。
vocalise@vocalise_0072025年11月22日読んでる読み終わった借りてきた総合すれば、人類学者が森に住む人々の思考様式を内面化していく過程の記録、とまとめてしまうと味気ないのだが、私の理解ではまさにそれだった。 読みながら、身体性について、自己/他者の境界について考えたり、10年ほど前に開腹手術を受けた際、「今から始まるのは回復というより再構築で、「元に戻る」ことはないんだな」と感じたことを思い出したりした。
シモン@yansimon071103202025年10月26日読み始めた読み終わった熊に齧られその熊とひとつになった、私の中に熊がいる、半人間半熊などと繰り返される主張にパンク気味。本人にしか分からない感覚や言葉に出来ない思いなどを他に伝える事も理解させる事も出来ない。それは種を超えてなら尚更難しい。その程度にしか分からない🤷♂️


- むこうやま@65yama_kana2025年10月11日カムチャツカの先住民を調査していた著者が山で熊と遭遇し、重症を負うところから始まる。 なめとこ山の猟師は熊に食べられて〈森の世界〉から帰って来れなくなるが、こちらは熊とつながりを得て、共に生きていく話。 治療の一環で医療者たちから非人間的な扱いを受け、顔の傷によりスティグマを負った著者が、カムチャツカの森や熊とのつながりの中にこそ居場所をみつけていく展開が魅力的。傷によって自身と精霊や森との境界が曖昧になり、半分人間、半分熊になった著者は「共に生きる未来」を求めて旅を続ける。 購入を迷う人は解説から読むのがよいかも。著者は人類学者だが熊信仰やアニミズムを体系的に解説する本ではない。解説にあるように、著者の内側と外側で起こったことを著者の視点から描くことで、熊と人とのつながりのあり方の可能性を表現する一冊。できごとの意味をあまり追求しないほうが楽しめる。

紺@kon_2025年10月5日気になるカムチャッカで熊に襲われ顎の一部を失いながらも生き残ったフランスの女性人類学者のエッセイ。カムチャッカのクマということは世界最大のヒグマ、カムチャッカオオヒグマなのでは…とゾッとしながら、読みたい…と俄然興味。



ハム@unia2025年9月26日読み終わった人間主体で物事を考えすぎるのは文明化した時代にはなかなか避けられないからこそこういった人類学ベースの知見が大事なのだと思う。 熊と人が混じっているとか、つながっているとか正直なところよくわからないんだけれど、著者自身もそれらをわからないまま悩み、模索し、人類学的な方法論で向き合っていく過程は読み物としてもおもしろい。 自分のなかに熊が同居する人はなかなかいないだろうけど、個人のアイデンティティは程度の差こそあれさまざまなものが混じることで作られていくことを考えると、自分であっても自分という人間についてはわからないことのほうが多いのかも。 フィールドワークしている文化に根ざした価値観の反映があれど熊に噛まれたことをトラウマにせず向き合う著者の胆力には驚く。 いろいろ揺さぶってくれた。

とめ@m_ake2025年9月21日読み終わった本屋や書評で見かけて気になって購入、一気によむ。カムチャッカで熊に頭を齧られながられた人類学者によるノンフィクション。 先住民族であるエヴェンの暮らしがまた魅力的なのだ…。狩に出られない日はみんなでたくさん寝て、見た夢について語り合う。
つたゐ@tutai_k2025年8月22日読み終わった読み終えた。 カムチャツカの森で先住民族を研究していたフランス人の筆者が、ある日森でクマに顔をかじられてしまう。 クマは気を変えて立ち去り、筆者は生き延びるが…「クマと繋がってしまった」。 ロシアで一度治療を受け、その後フランスでも幾度も治療を受けながら、クマが入り込んだ身体/精神の違和から再びカムチャツカの森へ帰り……。 筆者の独白で、内心の吐露が多く、「わからない」ことばかり。だからと言って困惑するわけではなく、語りというものの散漫さと、だからこそしっかりと受け取れるものがある、というのかなあ。 何回読んでも何言ってんのかわかんないけど「よかった」みたいな感想を抱く本なんだと思う。本から受け取ったことは、何重にもパッキングされていて、何が入っていますとかはうまく説明ができない…。 良い本というのは、何を持ち帰ったというのがその時にはわからない、生きていく中で包装紙が少しずつ剥がれていって、人生のその向こう側にたどり着いた時にようやく中身を開けられて、「そうだったんだ」と理解する「かもしれない」と思える本だなあと思っている。



























































































