ヒヨリ "目の眩んだ者たちの国家" 2026年3月4日

ヒヨリ
ヒヨリ
@charonll
2026年3月4日
目の眩んだ者たちの国家
目の眩んだ者たちの国家
キム・エラン,
キム・ヨンス,
パク・ミンギュ,
ファン・ジョンウン,
矢島暁子
読んで良かった。見えないもの、不在への想像と問う力。それが「私たち」の拡大に繋がると思う。「かわいそうな他人のため」ではなく、いつも「私たち」の悲しみや苦しみ、怒りのために五感を使い、考えられる人でありたい。 セウォル号は大韓民国の表象である。市場原理が社会に適用され、経済的な価値が絶対視されている。国家はprivatisation=民営化(では弱すぎる。)「私有化、私物化」され、私たちも私的範囲=「自己責任」で物事を考えるようになっている。私的なイメージによって媒介された「透明社会」のみが視界に広がり、他人の悲しみや怒りといった曖昧なものは見えないから考えることもできない。 他人の苦しみはあくまで他人の、私的な苦しみである。「彼ら」と「私たち」。 この境界線は、いつか「私たち」を苦しめることになるのだと、分かっている。 だから「私たち」の拡大を求める。 「私たち」と「彼ら」を分離したいという欲望に負けない。(「彼ら」は加害者/被害者どちらでもある) ……… これは事故ではなく事件。市場化という新自由主義がもたらした必然的な、国民も含めた国全体の応答責任を問う事件。 チン・ウニョンのパート。 「力を貸してください」と叫ぶ政治家に「清き一票を」と言われてしまうと、投票行為は施しになる。私たちの善良さは実を結び、「かわいそうな政治家」を助けたということになる。 選挙が終わった途端、施し/施される関係は逆転し、「じっとしていなさい」と言われてしまうのに。(そうして、政治家の「善良さ」が発揮されるのを待ち続けなければならない) 私たちは政治に違う関係性を持ち込まないといけない。「かわいそうかどうか」「施しを待てるかどうか」で立場を決めてはならない。被害者についても同じことが言える。彼らは無力ではない。 ペ・ミョンフンは権力の流れをペンに例える。10万本のペンを持った国会議員が、「手を貸してください」と言うのだ。 国がペンを取らない。セウォル号「事件」はそういう意味で衝撃的だった。 誰も責任を取らない、取ろうともしない。 その時、「誰も」という言葉に「私たち」は含まれているのだろうか? アンカーを託されたホン・チョルギの論考は示唆に富んでいる。 "いま論じなければならないのは、「私たち」自身も含まれた、社会全体に広がった無能力についてではないのか。 セウォル号「事件」は市場化、つまり新自由主義の最も分かりやすい表れである。 新自由主義とは「経済的なものによる統治」である。それは公共領域の民営化にとどまらず、私たちの主体性をも市場化した。(自己マネジメント、自己投資、自己開発………) すると、私たちは公的に話す/聞く能力を失った。関係の市場化…他人の私的な経験を、公的に捉えることができなくなったのである。 公的に捉えることができないというのは、「公的な視覚の喪失」でもある。 「いま私に見えるもの」に社会全体が還元された「透明社会」、つまり「可能性の専横」の結果として「イメージによって媒介された」社会において、現に見えたり聞こえたりしない、曖昧なものは不在であり、嘘であり脅威であり非倫理的なものになる。 見えるものと見えないものの間に、論争の余地はなくなる。 …… 「質問のない人生、想像しない人生、自分のこと以外には無関心な人生。いつもそんなふうに生きている人生、つまり毎日をできるだけ楽に生きていく人生」に心当たりはないか。 ファン・ジョンウンは自問し、やがて自答する。 「セウォルは、質問のない人生、無関心な人生という、私たちが選んだ生き方が引き起こし、そしていまもなおその黒い陰を落とし続けている惨事なのだ。」 そして再び問う。「私たちの中の誰が、自分は関係ないと言えるのか。」 畳み掛けるようにキム・ヘンスクが言う。「命はじっとはさせておかないものです。」 "命はじっとしていられなくさせるものです。 生きている人にとっては、目も、心臓も、さし込む歯の痛みも、待つことも、詩を書くことも、瞬くのです。" 応答を求められているのは、「私たち」だ。
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