Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
ヒヨリ
ヒヨリ
ヒヨリ
@charonll
人文書、短歌、SF小説多め
  • 2026年3月15日
    独り 気高く 寂しく
    独り 気高く 寂しく
    時間が経ったらまた読み返したい
  • 2026年3月13日
    独り 気高く 寂しく
    独り 気高く 寂しく
    p.116まで
  • 2026年3月13日
  • 2026年3月13日
    この世界からは出ていくけれど
    この世界からは出ていくけれど
  • 2026年3月7日
    文学カウンセリング入門
    文学カウンセリング入門
  • 2026年3月7日
    影犬は時間の約束を破らない
    影犬は時間の約束を破らない
  • 2026年3月7日
    クィア・レヴィナス
    クィア・レヴィナス
  • 2026年3月6日
    承認をひらく
    承認をひらく
    ずっと「人らしい人」になりたいと思っていたが、まず「人である」ために相互承認が欠かせないのだろう。 承認が「事実に間違いがなく、正しいもの、真なるもの、妥当なもの」を自ら問い直し、再認識することであるなら、「正しさ」とは何なんだろう? 内的価値基準としての良心についても触れられていたが、「良心」とは何なんだろう? 「正しさ」、「良心」はおそらく大きな枠のなかでは同じ意味を持つ。 それがどういう意味であるか(それを決められるかどうか)が問題なのではなく、その解釈の過程に、他者(社会)との関わり合いという視点を持つこと。多分やさしさや愛も関わってくる。スコット・ペックによれば愛とは、「自分自身と他者の精神的成長を育むために自己を拡大すること」だからだ。 承認には、「人びとの人間関係のなかで、さまざまな経験や学習が納得されながら積み上げられ、承認されて、人びととの連帯につながっていき、普遍的な考えとなっていく発展の過程」があるという。 他者(社会)との関係における相互承認は、自分と相手の領域を広げる。「正しさとは何か?」「良心とは何か?」と問い直し、承認する。この繰り返しから生まれる、もしくはそれを取り巻くのがやさしさや愛なのではないか。なぜなら一方的、つまり人間的なあたたかみのない承認は自分や相手の領域に「侵入」し「占領」するからだ。これこそ人権が「侵害」されている状態といえる。 しかし、「正しさとは何か?」「良心とは何か?」という視点を持って社会、他者とじっくり関わろうとするには(もっといえば社会活動(政治活動)をするには)やはり時間的、空間的、精神的余裕が必要ではないかと強く感じる。 "承認について考える承認"を得る、というジレンマがあるのではないか。 凡庸だが普遍的(と信ずる)な結論として、やはり一人ひとりが選挙に行って、社会の枠組みから変えないといけない… 国と国民の一方的な承認の関係を断ち切り、結び直さないといけない…
  • 2026年3月5日
    このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち
    「治療中心主義は自殺とうつ病の蔓延を生みだしている社会の構造的な要因を不可視化し、個人の絶望と不幸を心理的な問題へと還元することで自殺を個人化し私事化する。脆弱な自己を支え改善することにのみ没頭させる治癒中心主義はわたしたちの生と政治を断絶させる風潮を生みだしている。」 私たちはうつ病すらも自己責任で片付けられる社会に生きている… インタビューの中で多く出てきた、「役に立つ」人間じゃないから、「何かを得る資格がない」という自己否定のレトリックも、こうした自己責任を内面化した社会全体の雰囲気によって生まれると思う。 役に立つためには「自己マネジメント」「自己投資」「セルフケア」が必要で、私たちはもっと成長して良い人間にならなければならない。 昨日読んだ『目の眩んだ者たちの国家』の感想とも繋がるけど、市場原理を内面化しすぎて、私たちは自分の価値すら、セルフプロデュースすべきものだと思い込まされている。 そこにいるだけでいいはずなのに、ただ、「いる」ということに耐えられなくなっている。 だからこそ他人との関係で「ただ、いる、だけ」の自分を受け入れてもらえないのがどれだけ辛く、トラウマになるのかは想像に難くない。 (東畑開人『居るのはつらいよ』を読み直したい) ケアが私的領域、つまり自分か、自分と密接な関係にある人との中で完結させられる限り 病気も回復もすべて自己責任だ。 「私」に見えるものだけが「社会」の真実であると、「私」にとっての問題だけが「社会」の問題であると、見えるものと見えないもののあわいを消そうとする「透明社会」が気づくまで、「私たち」に主語を変え続けなければならない。 「私」が辛いのではなく、「私たち」が辛いのだ。 「愛は救いになれるか。わたしはそうだと言いたい。今でも愛を信じている。 しかしわたしたちは、愛されるのではなく愛を与えるとき、わたしたち自らを救うことができる。 救いの対象ではなく救いの主体になるときだけ、愛は救いになる。わたしを救おうとするのは悪い人だ。愛する対象は必ずしも人間である必要はない。動物でもいいし、物書きのような行為でもいい。」 「わたしたちが何を持っていないのかに重きを置くのが愛の世界だ。わたしの「無」とあなたの「無」が互いを認識するとき、激しくはないが何か穏やかで揺るぎのないことがわたしたちのあいだに起こる。ともにあることでしか耐えることのできない欠如があるが、ないものはそれ以上なくなることはないので、わたしはあなたから去る必要がないだろう。」 同時に、ケアが一対一の(特に、ロマンティック な)関係で完結することを目指すのは危険だ、と いうことについて。『ハートストッパー』のシー ズン3におけるニックとチャーリーのあり方を思 い出させた。 二人きりじゃない、と気づくことも愛である。
  • 2026年3月4日
    目の眩んだ者たちの国家
    目の眩んだ者たちの国家
    読んで良かった。見えないもの、不在への想像と問う力。それが「私たち」の拡大に繋がると思う。「かわいそうな他人のため」ではなく、いつも「私たち」の悲しみや苦しみ、怒りのために五感を使い、考えられる人でありたい。 セウォル号は大韓民国の表象である。市場原理が社会に適用され、経済的な価値が絶対視されている。国家はprivatisation=民営化(では弱すぎる。)「私有化、私物化」され、私たちも私的範囲=「自己責任」で物事を考えるようになっている。私的なイメージによって媒介された「透明社会」のみが視界に広がり、他人の悲しみや怒りといった曖昧なものは見えないから考えることもできない。 他人の苦しみはあくまで他人の、私的な苦しみである。「彼ら」と「私たち」。 この境界線は、いつか「私たち」を苦しめることになるのだと、分かっている。 だから「私たち」の拡大を求める。 「私たち」と「彼ら」を分離したいという欲望に負けない。(「彼ら」は加害者/被害者どちらでもある) ……… これは事故ではなく事件。市場化という新自由主義がもたらした必然的な、国民も含めた国全体の応答責任を問う事件。 チン・ウニョンのパート。 「力を貸してください」と叫ぶ政治家に「清き一票を」と言われてしまうと、投票行為は施しになる。私たちの善良さは実を結び、「かわいそうな政治家」を助けたということになる。 選挙が終わった途端、施し/施される関係は逆転し、「じっとしていなさい」と言われてしまうのに。(そうして、政治家の「善良さ」が発揮されるのを待ち続けなければならない) 私たちは政治に違う関係性を持ち込まないといけない。「かわいそうかどうか」「施しを待てるかどうか」で立場を決めてはならない。被害者についても同じことが言える。彼らは無力ではない。 ペ・ミョンフンは権力の流れをペンに例える。10万本のペンを持った国会議員が、「手を貸してください」と言うのだ。 国がペンを取らない。セウォル号「事件」はそういう意味で衝撃的だった。 誰も責任を取らない、取ろうともしない。 その時、「誰も」という言葉に「私たち」は含まれているのだろうか? アンカーを託されたホン・チョルギの論考は示唆に富んでいる。 "いま論じなければならないのは、「私たち」自身も含まれた、社会全体に広がった無能力についてではないのか。 セウォル号「事件」は市場化、つまり新自由主義の最も分かりやすい表れである。 新自由主義とは「経済的なものによる統治」である。それは公共領域の民営化にとどまらず、私たちの主体性をも市場化した。(自己マネジメント、自己投資、自己開発………) すると、私たちは公的に話す/聞く能力を失った。関係の市場化…他人の私的な経験を、公的に捉えることができなくなったのである。 公的に捉えることができないというのは、「公的な視覚の喪失」でもある。 「いま私に見えるもの」に社会全体が還元された「透明社会」、つまり「可能性の専横」の結果として「イメージによって媒介された」社会において、現に見えたり聞こえたりしない、曖昧なものは不在であり、嘘であり脅威であり非倫理的なものになる。 見えるものと見えないものの間に、論争の余地はなくなる。 …… 「質問のない人生、想像しない人生、自分のこと以外には無関心な人生。いつもそんなふうに生きている人生、つまり毎日をできるだけ楽に生きていく人生」に心当たりはないか。 ファン・ジョンウンは自問し、やがて自答する。 「セウォルは、質問のない人生、無関心な人生という、私たちが選んだ生き方が引き起こし、そしていまもなおその黒い陰を落とし続けている惨事なのだ。」 そして再び問う。「私たちの中の誰が、自分は関係ないと言えるのか。」 畳み掛けるようにキム・ヘンスクが言う。「命はじっとはさせておかないものです。」 "命はじっとしていられなくさせるものです。 生きている人にとっては、目も、心臓も、さし込む歯の痛みも、待つことも、詩を書くことも、瞬くのです。" 応答を求められているのは、「私たち」だ。
  • 2026年3月3日
    韓国の文化遺産巡礼
    韓国の文化遺産巡礼
  • 2026年3月3日
    すべての、白いものたちの
    すべての、白いものたちの
  • 2026年3月3日
    すべてきみに宛てた手紙
  • 2026年3月3日
    惑星
    惑星
  • 2026年3月2日
    ひかりの途上で
  • 2026年3月2日
    自分の感受性くらい
  • 2026年3月2日
    言葉なんかおぼえるんじゃなかった
  • 2026年3月1日
  • 2026年2月28日
    居るのはつらいよ
  • 2026年2月27日
読み込み中...