ヒヨリ "このクソみたいな社会で“イカ..." 2026年3月5日

ヒヨリ
ヒヨリ
@charonll
2026年3月5日
このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち
「治療中心主義は自殺とうつ病の蔓延を生みだしている社会の構造的な要因を不可視化し、個人の絶望と不幸を心理的な問題へと還元することで自殺を個人化し私事化する。脆弱な自己を支え改善することにのみ没頭させる治癒中心主義はわたしたちの生と政治を断絶させる風潮を生みだしている。」 私たちはうつ病すらも自己責任で片付けられる社会に生きている… インタビューの中で多く出てきた、「役に立つ」人間じゃないから、「何かを得る資格がない」という自己否定のレトリックも、こうした自己責任を内面化した社会全体の雰囲気によって生まれると思う。 役に立つためには「自己マネジメント」「自己投資」「セルフケア」が必要で、私たちはもっと成長して良い人間にならなければならない。 昨日読んだ『目の眩んだ者たちの国家』の感想とも繋がるけど、市場原理を内面化しすぎて、私たちは自分の価値すら、セルフプロデュースすべきものだと思い込まされている。 そこにいるだけでいいはずなのに、ただ、「いる」ということに耐えられなくなっている。 だからこそ他人との関係で「ただ、いる、だけ」の自分を受け入れてもらえないのがどれだけ辛く、トラウマになるのかは想像に難くない。 (東畑開人『居るのはつらいよ』を読み直したい) ケアが私的領域、つまり自分か、自分と密接な関係にある人との中で完結させられる限り 病気も回復もすべて自己責任だ。 「私」に見えるものだけが「社会」の真実であると、「私」にとっての問題だけが「社会」の問題であると、見えるものと見えないもののあわいを消そうとする「透明社会」が気づくまで、「私たち」に主語を変え続けなければならない。 「私」が辛いのではなく、「私たち」が辛いのだ。 「愛は救いになれるか。わたしはそうだと言いたい。今でも愛を信じている。 しかしわたしたちは、愛されるのではなく愛を与えるとき、わたしたち自らを救うことができる。 救いの対象ではなく救いの主体になるときだけ、愛は救いになる。わたしを救おうとするのは悪い人だ。愛する対象は必ずしも人間である必要はない。動物でもいいし、物書きのような行為でもいい。」 「わたしたちが何を持っていないのかに重きを置くのが愛の世界だ。わたしの「無」とあなたの「無」が互いを認識するとき、激しくはないが何か穏やかで揺るぎのないことがわたしたちのあいだに起こる。ともにあることでしか耐えることのできない欠如があるが、ないものはそれ以上なくなることはないので、わたしはあなたから去る必要がないだろう。」 同時に、ケアが一対一の(特に、ロマンティック な)関係で完結することを目指すのは危険だ、と いうことについて。『ハートストッパー』のシー ズン3におけるニックとチャーリーのあり方を思 い出させた。 二人きりじゃない、と気づくことも愛である。
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