
おいしいごはん
@Palfa046
2026年3月7日
人といることの、すさまじさとすばらしさ
きくちゆみこ
読み始めた
“秘儀とか秘跡とか。ともすれば閉鎖的・宗教的な文脈で捉えられ、あやしく響くスピリチュアルな言葉も、ボイスやシュタイナーの視点を通して見れば次のように考えることもできるかもしれない。
それはきっと、人と人とが出会うときに起きること。自分とはちがう存在に気づき、深い関心を寄せること。無関心=「ケア-レス」ではなく、創造的に関わり合うことで常に「ケア-フル」でいようとする、そうした人と人とのあいだに生じるもの。
そう考えてみると、スピリチュアリティというものは、本来もっと地に足のついた、現実的な行為のようにも思えてくる。”(p.25)




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“SNSで「選択的夫婦別姓」と検索すればいくらでも出てくる投稿の、推進派のメッセージには「そうだそうだ!」と前のめりになりながら、そこについた否定的なリプライを見ればすぐさま反駁したい衝動が爆発する、それでも最後にはどうにもやりきれない気持ちになってしまうのは、本来訴えたいはずの相手が現実にはいないからなんだろうか。ケータイを開き、誰かの意見をちらっとでも目するたびに、「呼びかけられた」と思ったわたしはすぐに反応してしまう、はじめは表情で、それから感情で、そしてようやく言葉を見つけたとき、応答すべき相手はもうそこにはいない。宛名のない、呼びかけるべき名前を持たない、いくつものメッセージに毎日さらされて生きている。
そういうわたしも、自分の書きものを通じて同じように誰かに呼びかけ、ふり向かせ、そうして生まれた応答を、知らずしらずのうちに無視し続けているのかもしれない。そんなうしろめたさを感じながらケータイをしまい、コーヒーを飲み干して席を立った。”(p.52)

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“「会えば会うだけ会えるようになるし、会わなければだんだん会えなくなる」
だから、さあ、つべこべいわずに“Show up for yourself”(自分の人生に積極的に参加しつづけて!)。これまでの経験で学び取った、言葉遊びみたいなこの習慣の法則を、いまはとりあえず信じるのみ。”(p.72)

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“担任だったころの先生はまだ30代で、いまのわたしたちよりずっと若かった。だから気軽にタメ口で話しかける生徒もいたけれど、わたしはそんなことできるタイプじゃなかった。でもこの夜は、先生だけじゃなく、当時はあまり話さなかった同級生たちとも軽口を交わせたような気がするのだ。お酒の助けもあったと思う、それでも年を重ねるうちに、もしくは Tumblr や Zine を通じて親密な語りの文体を手に入れていくなかで、「話し言葉の微妙なコード」みたいなものも、いつのまにか習得していたのかもしれない。”(p.86)

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“仕事や読書なんかで頻繁に訪れる必要がある店なども、できるだけ常連のいない、もしくは自分がそうならない場所を選んでいる。こちらに引っ越してきてから、「郊外の暮らしはどう? 個人店がなくてつまらなくない?」と聞かれることもあるけれど、考えてみれば、東京に住んでいた頃と行き先は大して変わっていない。インディペンデントに活動する人々を応援したい気持ちはいつもあるけれど(だって自分もそうなわけだし)、仕事をするのも、読書でくつろげるのも、けっきょくは知り合いのいないような匿名性の高いチェーン店なのだった。”(p.146)

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“その最たる象徴がスーパー銭湯なのかもしれない。こうした場所は「常連」を生み出すような親密な気配がない。もちろんわたしもすでに何度も通っているし、とくに朝方にはご老人たちの姿もちらほら見え、おそらく近所なのだろう、徒歩や自転車で来ている様子がうかがえる。彼らはまさに、この場所の常連にちがいない。それでもわたしは、ここでぽつんとお湯に浸かっていても疎外感をまったく感じない。午前中はひとり客が多いからかもしれない。とはいえ、時間によっては親子や友人同士で来ている人たちにどどっと出くわすこともあり、彼らがわいわいと楽しそうに語り合うそのすぐ隣にじっとんでいたとしても、不思議と孤独感や閉塞感を覚えないのだった。
こんなに無防備な状態でスペースを共有しているというのに、なぜだろう。身につけているのは多くて小さなタオル一枚、こうして誰もがヴァルネラブルな体でいるからこそ、他者に対する絶妙な距離感が保たれるのかもしれない。基本的にみんな伏し目がちで、そばにいる人をじろじろ見たりはしない。たいていの人は何を考えているかわからない無表情で、それでも気持ちよさそうに湯に浸かり、同時に自分の世界に浸っている。
かといって、電車やバスなどの公共機関で感じる無関心さともちがう。ちゃんと誰かがそこにいることを受け入れながら、それでもこれ以上関心を持ったら壊れてしまいそうな「何か」があることに気づいていて、その「何か」をみんなで守っている、そんな感じがする。人が人でありながら、そう、たとえばそこにある露天風呂にランダムに配置された岩と同じくらい、いい意味で「どうでもよい」存在に感じられるのだ。(pp.146-147)”

おいしいごはん
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“共感」にこだわり続けてきたわりに、community(コミュニティ・共同体)とか、commune(コミューン・共同生活体)とか、companion(コンパニオン・仲間)とか、ラテン語の接頭辞「com-(=共に)」を含む言葉からイメージされるものをどこか恐れる気持ちがあった。こちらが頼む前からあれこれヘルプが飛んでくる過保護な環境で育ったせいか、ちゃんとしたcommunication(コミュニケーション・やりとり)を通じて、何かにcommit(コミット・責任を果たしつつ関与する)することが求められる場所では、うまくやっていけないと思っていたのかもしれない。
その結果、親やパートナーなど、「この人なら」と決めたひとりの人にすべてを任せ、頼り、依存することしかできなくなっていた。日本でも、そして4年間暮らしていたアメリカでもそうだった。”(p.204)

おいしいごはん
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“子どもの頃、贈りものというのは「自分がほしいものをもらう」ことだと思っていた。
テクマクマヤコンだけじゃない、わたしはあの頃、すべてのものがほしかった。キャップにきらきらのついた色とりどりのペンや、フルーツの香りがするねりけしやにおいだま。
おばあちゃんたちと買い物に行くたびにメモ帳やシールをねだったのは、必要だからではなく、「持っている」という優越感に安心を覚えていたから、そしてクラスの子たちにそれらを配ることで、彼女たちの心を繋ぎ止めようとしていたからだった。ほしいものをあげれば、わたしのことを好きになってくれるよね、というように。”(p.228)

おいしいごはん
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“「きちは基本、反感から入るもんね!」松樹に最近指摘されたように、わたしが人に持つ第一印象はどうやらネガティブなものらしい。そのつもりはないのに、緊張して身がまえた結果、知らぬ間に相手に悪意を見出している。
悪意と言っても、「なんかこわそう」とか「話が合わなそう」とか、たいていがポップなもので、だからこそ無意識のうちに相手を遠ざけることになる。もしくは愛想ばかりをふりまいて、そのじつちゃんと向き合わず、のっぺらぼうの存在として相手を心の外に締め出してしまう。そのことにしばらくは気づかない、気づかないままに終わった関係もあるかもしれない。
それでも出会いを重ねるうちに、ようやく思い至るのだ。やさしいとかつめたいとかだけでは括れない、人間本来の複雑さが、誰の中にもあることに。そしてそれは言葉でも表情でもなく、日々のささやかな行為のなかに現れるということに。(pp.249-250)”