muma
@casa_muma
2025年12月7日
プラハの古本屋
千野栄一
最近、言語学者・千野栄一さんのエッセイ「プラハの古本屋」を読んだ。
千野さんは、戦後最初の交換留学生としてプラハに暮らし、その後は東京外語大教授などを歴任。クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の和訳も行っている。すごいインテリ。
エッセイの中に、「魚」というタイトルの1遍がある。「うなぎは魚なのか、魚ではないのか?」という千野さんご本人の素朴な疑問から、徐々に、言葉が持つ曖昧さ、そしてその曖昧さがもたらす働きの話へと広がっていく。
"語というものがその示す内容との間にこのようなゆるい結びつき方をしているということにはどのような意味があるのであろうか。"
"語というもののあり方を、絵画と写真の表現方法のいずれに近いかといえばずっと絵画の方に近く、それだからこそ、絵画がデフォルメにより、写真以上にそのものを強調できるのと同じように、語も詩人に使われると同じような力を発揮できるのである。"
非常に納得できる文章だ。
言葉は一つの意味、一つの存在に対応しているわけではない。だからこそ、受け取る側に解釈のゆとりが生まれる。
言葉の曖昧さこそが、これはまるで私のための物語だ、という驚きや救いにつながる。「言葉にするとこぼれ落ちてしまう」一方で「言葉にすることで生まれる」こともある。
同じく千野さんのエッセイに「スライムの終焉」という一遍がある。
まだスライムが市民権を獲得していないころ、スライムについて知っているかと人に尋ねると、それを説明するのにも理解するのにも、みんなが苦慮するのが面白い、みたいな内容だ。その中で「レーゾンデートル(raison d'être)」という言葉が説明もなしに出てくる。
"スライムはサラッとしているところが意外性といえばいえ、この特徴を利用して、人にかけたりしてびっくりさせることがスライムの raison d'êtreなのである。"
調べるとこれはフランス語で、哲学用語であるらしい。存在意義、存在を正当化する根拠、みたいなことを指す言葉のようだ。
raison d'être
言葉の響きが気に入った。
みみず入りスライムなど、スライムの亜種が出てきたことで、スライムは自身のraison d'êtreを否定している、という考察がとても腑に落ちた。
raison d'êtreではなく、日本語で「存在意義」と言ってしまってもよいかもしれない。でもこのraison d'être という語が持つ大らかさに惹かれる。
存在意義、と言ってしまうと、時系列が乱れる気がする。例えば会社に入って、いい働きをすればその人は会社にとって存在意義がある。意義のある人生とか、意義深い経験とか、現在から過去を肯定する視点が、日本語の「存在意義」には含まれているように思う。あとから、存在意義を付与することができる。
raison d'êtreからは、本質的なもの・元から備わっているもの・内在しているもの…みたいな印象を受ける。
あくまで私の受けた印象として。
家庭や社会で軋轢を生じさせているあらゆるものごと。紐解いていくと「raison d'être」の解釈違いが引き起こしているのではないかしら、と思う。
例えば苗字の「raison d'être」、女の「raison d'être」、私の「raison d'être」。存在意義を自己否定するような動きは嫌悪感を抱かれやすい。
それにしても、他人の考えを圧縮して、一気に流し込むことのできる書物というメディア。マイペースで刺激に弱い自分にはピッタリだ。
本を手に入れる。それは、いろんな速度で走る、いろんな窓のある乗り物を手に入れるのとほとんど同じことだ。世界の見え方が変わる。速度を緩めることで見えてくるものがある。既知のことも、認知のフレームを変えるだけで、新鮮に感じられることがある。
