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muma
@casa_muma
  • 2026年4月26日
    無限の網―草間彌生自伝―(新潮文庫)
    草間彌生さんの人生は激動すぎて、この本は2回目だけど読み応えあった。 今はポップでかわいいみたいに消費されてるけどアメリカではすごかったんだなぁ
    無限の網―草間彌生自伝―(新潮文庫)
  • 2026年4月14日
  • 2026年4月12日
    プレシジョン(上)
    プレシジョン(上)
  • 2026年4月4日
    性的であるとはどのようなことか
    歳が近い方が書いてて気になったのと、自分が性的であるべきでない時に性的であってしまう可能性に怯えて暮らしていたので手に取った。 怯えは解消されなかったが、性的であることと、エロティックであること(SNSなどでよく「えっちだ」と表現されるもの)は異なり、後者は美学的な観点を含む、という視点は面白かった。 谷川俊太郎さんのヤバい詩も引用されていた。 誰しもえっちではありたいが、性的でありたいわけではないのだと思った。 「進化は、ある環境に適応した生命を生み出すシステムであると同時に、適さないすべての生命に死を与え、選別し捨て去るシステムなのだ。ゆえに、進化の産物たる生命たちは、みな、美しければ美しいほど、合理的であればあるほどに、色濃い死の匂いにあふれている。」p126 美しいほど死の匂いがするという考え方はえっちだったが、この本が全体的には、あんまり私の好みの知的な書き方ではない(=えっちではない感じ)ので、どうも頭に入らなかったかも。
  • 2026年4月4日
    ぼくの哲学
    ぼくの哲学
    気になってたから、文庫化されて嬉しい
  • 2026年3月15日
    家の哲学
    家の哲学
    1年前の積読消化できた
  • 2026年3月15日
    読者に憐れみを ヴォネガットが教える「書くことについて」
    終わった!めちゃくちゃ良かったな〜 カート・ヴォネガットが優しい人だってことがわかった
  • 2026年3月9日
    訂正可能性の哲学
  • 2026年3月9日
    思考のレッスン
  • 2026年3月9日
    デパートの誕生
    誰にも教えたくないくらいおもしろい本。北書店で買った。
  • 2026年3月9日
  • 2026年3月8日
    チエちゃんと私
    チエちゃんと私
    rikaさんが引っ越した。その家の雰囲気と、女2人、ルームシェアという設定は私に「チエちゃんと私」というよしもとばななの小説を思い出させたので、久しぶりに読んでみることにした。 この本はもう5回は読んでいるはずだけど、やっぱり久しぶりに読んでも、生きることのすばらしさがプチプチしていて、優しい気持ちになる小説だった。読んでからお風呂で柔らかいシャワーを浴びると、自分のお気に入りの記憶が泡みたいに脳内ではじけるのだった。自由で、きれいで、すこし俗っぽくて、本当はすごく計算高く生きることもできるけど、道を踏み外さない。女の人のかわいくて、賢くて、いいところを全部煮詰めたような小説で、本当に大好きだ。自分の肩にまた力が入っていたことに気づく。大切にすべき感情、見るべき景色、語るべき言葉から変な自我が抜けて、ニュートラルになる。ありのまま、少女のまま、また明日からも好きなように歩けばいい、どうしても歩かないといけない道なんてないのだ。こんなふうに思っても、また、どうせ道を踏み外す。こうありたい、が積み重なって、窮屈な人間になっていくのは避けられない。でもまた読み返せばいい。夢みがちで自由だった、大人になりかけの女の子に戻れる。これはよしもとばななの文章だけが持つ魔法なのだ。
  • 2026年3月8日
    もの思う葦
    太宰治のアフォリズム集。これを読むと、太宰は自分の小説をとても愛していたことがわかってびっくりした。 もの思う葦 太宰治 P106-107 「晩年」に就いて (略)  こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね。いまの小説、みな、面白くないでしょう?  やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。  あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。  みんな、面白くないからねえ。面白がらせようと努めて、いっこう面白くもなんともない小説は、あれは、あなた、なんだか死にたくなりますね。(略)
  • 2026年2月8日
    村上春樹 雑文集
    保坂和志「書きあぐねている人のための小説入門」を読むと、(猫を人間の心情のメタファーとして使うな、少なくとも自分は使わない、愛する猫にそんなことはしない)、というようなことが書いてある。確かに無理に猫に投影することはないかもしれないなと思う。そのまま村上春樹の「村上春樹 雑文集」を読むと、温かく柔らかく湿った猫のメタファーが出てくる。そこでは猫は、良き物語の中に必要な正しい仮説のメタファーとして機能している。メタファーであるが、保坂和志さんの忌み嫌う猫の使い方ではない。村上春樹さんの猫は共感覚である。物語に必要な適切な仮説について語ろうとすると、猫が思い浮かんでしまうようなことだ。私もたまにそういうことがある。この言語と脳内風景の共感覚をそのまま書けば、無理のない文章になるし、相手に理解してもらおうという意図から親切に比喩を探して使うと、白々しい文章になる。 たまたま続けて読んだ2冊の本が、創作論と猫で繋がっている。自分で選んだ本を読むと、その時に欲しかった問いが勝手に書いてある不思議がある。自分の中に正確なアルゴリズムが存在しているように思える。正確なアルゴリズム、と今ここに書いた時、10年前に過ごした文学部キャンパスの講義棟にあるピロティが脳裏をよぎった。正確なアルゴリズムについて書こうとする時に活発になる記憶の回路があり、あのピロティが一瞬照らされたのかもしれない。不思議な気持ちだ。何かを読むとき、書くとき、自分の中に起こる神秘から目が離せない。人間の中にはまだ解明すべき謎がたくさん潜んでいて、内省の面白さからは逃れられない。
  • 2026年2月3日
    知性について
    内田樹さんの「知性について」を読んだ。面白くて、車の修理を待つ間にディーラーの店内でも読んだ。インスタントのホットドリンクを嗜みながら、小さいカゴに積まれたハイチュウ、ぷっちょ、キャラメルを食べる。この空白時間は娯楽だ。好ましい保留。心のワームホールにそっと収集しておく。ワームホールってなんだよ。 普段は自分がどんなキャンディが好きかなど真剣に考えずに生きているが、あらためてカゴに盛られると、優先的にぷっちょを食べてしまうことに気づく。それ以外のなにもかもが保留されていると、くだらない細部が気になる。それが子どもに戻るということかもしれないと思う。世界が目の前の現実としてしか存在しないように、単純に知覚する。 読んでいる「知性について」は、韓国の読者からQAを募集し、内田さんがそれに答える形で展開する本で、2025年に日本語訳が出た。内田樹さん。武道家であり思想家で、哲学、とくにレヴィナスを研究してきた。韓国での彼は、総合的な知性を持った人物としてけっこう人気があるらしい。彼は知性を個人の所有物ではなく、共有物とみなし、人間全体が知的に慧眼することを目指しているようだった。人間の大きな知性に対して、自身は断片として貢献できればよいという謙虚なスタイル。なかでも共感したのは、良いものを読むと知的回路が活性化してピリピリする、なにかしたくなるという趣旨の記述だった。その気持ちはよくわかる。私は本を読んでいるとたまにそういう気分になる。新しい情報が頭に入ってくることで、明るい未来が目の前にスッと開ける感じ。たとえば家具や建築の歴史をふまえて、自分がこれから新たに作り出せる空間を思うと、胸がピリピリときめく。いい文章もたくさん書きたくなる。そして、ワクワクしすぎると腸が過敏になり、トイレに駆け込む。家を建てる前、内装に関するたくさんの美しい本を開くたびにお腹が痛くなった。 私がいま取り組んでいるpodcastでも、そういうふうに聴く人がピリピリできるといいなと思っている。他者への希望、人間への期待、自分への信頼は知性から始まる。インテリぶりたいわけじゃない。ほんもののインテリじゃないからこそ、私は勉強と非勉強の境界が分かる。日々、好奇心と無関心の反復横跳びをする。怠惰な脳みその中に時々電流が走って目の前が聡明にきらめく一瞬を喜び集めながら、生きることができるのだ。
  • 2026年1月31日
    sees magazine 創刊号 vol.01 Rescale リスケール
    変化のさなかにあるとき、言葉は失われる。速さに追いつけずに。  長野県は伊那谷にある農と森のインキュベーション施設「inadani sees」を運営している株式会社やまとわ。やまとわが発行するリトルプレス、「sees magazine」を読む。  創刊号の特集はRescale(リスケール) – ちょうどいい規模、新しいものさし。  ちょうどいい、とは、ヒューマンスケールを失わないということではないか。ヒューマンスケールとは何か。  素朴な問いを頼りに、各地でちょうどいい商売をしている人たちを取材し、その内容をまとめた本。  資本主義至上主義に陥らないローカルビジネス、小商いの数々。お金によって動かされるのではなく、自分の中にある違和感を解消しないと、可能性に開かれていないとやる気が湧かない、そういう人種がこの世にいるのだ。  千葉県南房総にある廃校を活用したローカル施設「SHIP」の 牧野圭太さんへのインタビューで、牧野さんが自分のことを「可能性ドリブン」と表現していたのが面白かった。調べてみると、〇〇ドリブン、というビジネス用語があるようだ。もともとdrivenの今は、〇〇に突き動かされた、という意味なので、ビジネスでいうとそれは〇〇を元に意思決定する、みたいな意味があるようだ。私の人生の運営方法は〇〇ドリブン、と自覚して生きるなら、ここに何を入れようか。気分ドリブンかな。それは何にもドリブンされてないということでもある。  フォトグラファーの高重乃輔さんのエッセイ「自然な存在を被写体として」には気持ちを動かされた。たった数ページに、自身の最初の就職から幾多の引っ越し、偶然のカメラアシタントの仕事との出会い、そして独立、今目の前にいる妻子へ湧き上がる素朴な愛情までを惜しみなく一気に注ぎ込んでいるところが贅沢でよかった。能動的でも受動的でもない、しかし自分の声に従う自然な人生の流れを見せてもらった。ZINEやリトルプレスの良さはこういうところにある。言語化ドリブンされていない人たちが、依頼されたから話してくれる、書いてくれることがある。貴重だと思う。  将来こんなふうにさらりと人生について書くために、起こった変化について都度書きとめておいたらよかった、と思う。 変化のさなかにあるとき、言葉は失われる。速さに追いつけずに。
  • 2026年1月4日
    フィッツジェラルド10 傑作選 (中公文庫)
    フィッツジェラルド10 傑作選 (中公文庫)
    素晴らしい訳文 十一年ののち、五月のある真夜中に、彼は息をひきとった。ライラックの香りが窓際に漂い、風が蛙や蟬の鮮かな声を運びくる夜だった。午前二時にふと目を覚ましたロクサンヌは、自分がついにこの家に一人置き去りにされてしまったことを知って、驚きの念に打たれた。 (残り火 スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳)
  • 2026年1月3日
    ル・コルビュジエ
    ル・コルビュジエ
    自分のふるさとを知りたいなとこの文章読んで思った。 ル・コルビュジエ モダンを背負った男 p226 ある街を包囲した時など、無実のカトリック教徒が異端者と一緒にされ、無差別に殺されるのを憂慮した兵士に対し、指揮官の修道院長は「軍隊は、ただ皆殺しにさえすればいい、あとは神が解決してくれる」と答え、この冷酷非道な言い回しは、その後、長い間、残虐な将軍たちによって好んで使われた。カタル派の最後の生き残りは、スイス北西のジュラ山系に難を逃れ、ル・コルビュジェは、その難民こそがジャンヌレー族の家系に関わっていると確信していた。南仏や地中海沿岸に惹かれたのは、彼の血筋がそうさせたのかもしれない。であれば、自らを「反逆者」と認めるのも、まさに合点がいく。
  • 2026年1月2日
    優しい暴力の時代 (河出文庫)
    優しい暴力の時代、というタイトルで、2010年代の韓国のリアルを描いた短編集。日常を写し取り、そこに過剰な解釈を与えない姿勢は、少し村上春樹の短編に似ている。似ていると感じる分、村上春樹との違いからこの作品が見えてくる。登場人物たちの思考のアクセルの踏み方や、時間の進みの描き方に勢いがある。我が子が知らぬ間に妊娠していた主婦、育児の悩みに関する良き相談相手を救わなかった母親、事故物件をつかまされた夫婦。嫌な予感とあっけない幕引きと宙吊りにされた読者の感情。派手ではない事件の数々をただ眺め、「そちら側」に立たななくて済んだ自分に安堵するとき、自分自身の中にある残酷さが鈍くも浮かび上がる。
  • 2026年1月2日
    生きるための表現手引き
    約2年ほど、Evernoteに日記を書き殴っている。 最初は家づくりの時の思い出を残すために。 気づけば日記が自己目的化して、出来事など書かず、頭に浮かんだ考えばかりを書いた。 頻繁に新しい考えが降ってくるようになり、これまで読んだもの・体験したことが有機的に繋がっていく愉快な感覚があった。 底なしの井戸にそうっとロープを垂らすように、書いたことを足がかりに、さらに自分の奥に奥に、自覚していなかった考えを見つけていった。もう戻ってこられない予感とともに、気づきが日の目を見る小さな奇跡体験の連続だった。 些細な心の変化へのアンテナが研ぎ澄まされたことが、社会生活ではマイナスに働くこともあった。家づくりでも職場でも、実務的な選択の連続に疲弊し、それを文字に起こすことが億劫になった。やがて日記を書かなくなった。 何かの拍子にまた日記を書くようになったが、そこには以前とは異なる何かが生まれていた。 私は、「気づき」に着地する、カタルシスありきの日記を書けなくなった。 カタルシスという言葉は、「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味します。もともとは、アリストテレスが『詩学』に書き残した悲劇論から、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」をさす演劇学用語です。転じて、精神医療においては「抑圧されていた心理を意識化させ、鬱積(うっせき)した感情を除去することで症状を改善しようとする精神療法」をさします。さらに、一般化して、「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」をいいます。 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/第36回-カタルシス 毎日脳みその迷路に分け入って、自分の考えから憂鬱のヴェールを剥がし、新鮮なつぶつぶの幸せがありがたく収穫できることを前提にした、かつての春夏秋冬な日記の型が自分にフィットしなくなった。別のヴィークルが必要になった。 ほぼ同時に、精神の浄化を目指すタイプの劇場型小説を読まなくなった。 ぬるぬると始まり、ソフトランディングして終わる、読後に情景だけが残像として置いていかれるタイプの小説に、頻繁に手を出すようになった。 これはどういうことなのだろうか。 悲しむ、回復する、目の前の幸せに目が向けられるようになる、自分は満たされ、世界は私を祝福している。また世界から見放される、悲しむ、回復する、目の前の幸せに目が向けられるようになる、自分は満たされ、世界は私を祝福している・・・ 感情の祭りに疲れ、日常・非日常という分割にも疲れた。 小説空間の中だけに存在する永遠の保留に安らぎを見出すようになり、できればそこにずっといたいと思うようになった。 私は幸福になるためのゲームから一旦降りることにしたのかもしれない。 そんな思いを抱いていた折に出会ったのが「生きるための表現手引き」である。 渡邉康太郎さんの著書で、およそ表現に対して臆病になっているアマチュアに向けて、表現することは役に立っても/立たなくてもいいし、評価されたり/されなかったりすることが表現を始めたり/やめたりする理由である必要はない、というような優しい語り口調をとる。実際に何かをつくる時に、具体的にはどういう方法があるか、模倣とは何か、などを美術史や過去のクリエイターたちの言葉を集めながら紹介していく。作りたいという気持ちを無意識に抑圧してきた人々の声に触れている。 ガイドブックのような本で、渡邉さん自身の強い主張が出てくるわけではない。 私たちはこの本から気に入った部分を抜き出し、自分のつくるためのお守りのように使うことができる。 冒頭に書いた、私の現状と照らし合わせると、「ドミナント・ストーリー」の説明が印象的だった。 「生きるための表現手引き」(著・渡邉康太郎)p232-234  他者に受け容れてもらいたい、話を聞いてもらいたい。そのために他者からの期待に応えたい。するとわたしたちはときに、他者から期待されるであろうナラティブを内面化してしまいます。つらいという本音を隠して、「いい話」に仕立てないと聞いてもらえないのではないか。いや、しばしば、実際に聞いてもらいづらいのだと想像します。すると、他者の期待をそのまま自分の意見に据えてしまったり、そもそも気持ちを言葉にすることをやめてしまったりすることもあるでしょう。  こういったナラティブをドミナント・ストーリーと呼びます。ドミナントは「支配的」を意味します。わたしたちを支配している正論的なナラティブととらえてみましょう。  わたしたちは、自らのなかにある小さな思いや違和感、「社会の常識」と異なるかもしれない考えを、知らずからずのうちに過小評価したり、打ち消したり、気づかぬふりをしたりしています。 幸福であれ、というドミナントストーリーから抜け出し、日記の中の小さな起承転結というヴィークルから降りた先に、何が待っているのだろうか。満足する文章を書けるようになるのだろうか。
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