Ryu "隠喩としての病い・エイズとそ..." 2026年3月10日

Ryu
Ryu
@dododokado
2026年3月10日
隠喩としての病い・エイズとその隠喩
隠喩としての病い・エイズとその隠喩
スーザン・ソンタグ,
富山太佳夫
「怖い伝染病は例外無しに、とくに性の放逸とつながりがあるとされる伝染病は、病気をもっているとされる人々(常識的には貧しい人々のこと。アメリカでは膚の色の黒い人々のこと)と「一般の人々」──それを定義するのは健康問題の専門家やその他の役人である──との間に強力な差別を生み出す。エイズは、この病気にとっての「一般の人々」──薬物の注射などしないし、そんなことをする者とは性関係をもとうとしない異性愛の白人──の間に、同じような伝染恐怖や伝染不安を甦らせた。梅毒に似て危険な他者のもつ病気、危険な他者からもらう病気であるエイズは、しかし梅毒などよりもずっと大きな規模で、すでにスティグマをになわされた者を襲うとみられているのである。しかし梅毒は確実に死に、長い苦悶のあとから来る死につながるとはされていなかったのに対して、かつては癌がそうだと想像され、いまはエイズがそうだと思われている。」142 「私が言っているのは、べつに隠喩が臨床上の概念を作りだすわけではないけれども、それをたんに追認する以上の働きをするということである。それは、まだ証明されていない、今のところは証明できるとされていない臨床データの一解釈のみを後押ししてしまうのだ。わずか七年前に発見されたにすぎない病気について、感染すれば必ず死ぬことになるとか、エイズと規定されたものを抱えこんだ人はみなそれで死ぬのだと結論するのは時期尚早にすぎるだろう(……)。病気がいくつかの段階に分かれていると解釈することが、「病気の満開」という隠喩を作用させるための必要条件なのだ。しかしそのことは、この隠喩が暗示する必然性の印象をいくらか弱めもした。感染が等しく致命的なものかどうかについて冷静に見究めようとする人々ならば、普通に言われる三段階分類──HIV感染、エイズ関連症候群、エイズ──を使って、感染した人がすべてHIV感染の段階から「進む」、「卒業する」わけではないとする絶望性の少ない考え方と、みながそうなるとする絶望性の強い考え方のいずれかを、あるいは両方をとることができるだろう。」143-4 「ヨーロッパは特権的な文化の場であるという何世紀来の思い込みの一翼をになうのが、そこは他の土地から来る死の病いに植民される場でもあるという発想である。ヨーロッパは本来病気からは自由であるというわけだ(その一方で、ヨーロッパの人間は、自分たちが侵略者、植民者として、自分たちの死の病いを、遠い「未開の」世界にはるかに壊滅的な持ち込み方をしたことについては、驚くばかりに無感覚である。南北アメリカやオーストラリアの原住民に天然痘、インフルエンザ、コレラがどんな荒廃をもたらしたか考えてみるといい)。」167-8 「消費至上主義があり、自己の表現がほとんど文句なしに尊重されている以上、ある種の人々にとって、性行為が選ぶべき消費法に──自由の、増大した活動の自由の行使に、制限を後退させる努力に──ならないということが、いったいありうるだろうか。レクリエーション的な、危険のない行為というのは、男の同性愛者の下位文化が発明したものどころか、資本主義の文化が必然的に再発明したものであり、医学によって保証されていたのである。エイズの登場はそのすべてを変えてしまったように思える、逆戻りできないほどに。」200 「二種類の災厄があるのだ、実は。しかもその間にギャップがあり、想像力はそこでもがく。すでにある疫病と(現在の統計的な推定によるならば)やがて来るはずの世界病の違いというのは、現在の戦争、いわゆる限定戦争と、やがて起こりかねない想像を絶するほど恐ろしい戦争のーそれは、人々がエレクトロニクスのゲームとして熱中している類の(SF的な装置がすべて出てくる)ものになるだろうがーそのふたつの違いに似ているように思われる。容赦なく死者の数を増やし続けている現実の疫病(各国の、また国際的な保健機関によって毎月、毎週、数字が公表されている)のむこうに、われわれが起こると思い、かつ起こらないと思っている、質的に異なる、はるかに大きな災厄が待っているのだ。」216
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