
Ryu
@dododokado
2026年3月10日

かつて読んだ
また読んでる
「戦後世界は、米ソ両陣営によって二分されてきた。これほどまでに単純な二項対立(形而上学)が全世界を支配したことはかつてない。それを支えてきたのは、核というよりも、実は「核の均衡」である。米ソの「核の均衡」は、たえまない競争によって維持されている。だが、米ソにとって肝心なのは、現実的な対決ではなく「均衡」であり、その均衡の下で世界の二元構造を維持することである。実際この二元構造は、それ以前なら戦争によって解決されたかもしれない多様な葛藤を吸収してきた。一方、それは、この二元性をこえようとする試み──人間主義(疎外論・身体論)や「第三世界」に根拠を求める──を、結局そこに吸収してしまう装置であった。たとえば、一国の内部でいかに「第三の道」が追求されたとしても、それがある水準まで現実化されれば、必ずこの二元構造に組みこまれてしまう。どんな革命・戦争も米ソの“代理戦争”となるほかないのである。」197-8
「病気が「意味」だとすれば、健康もそうである。というより、現在支配的なのは健康という「病い」であろう。たとえば、ひとびとは禁煙し、ジョギングをやる。政治的にも、”"健康”なイデオロギーが支配的となっている。したがって、私が強調したくなるのは、むしろ「病者の光学」(ニーチェ)なのである。」271
「身体的な病気と精神病の区別も、もちろん「分類」である。そもそも病気と健康の二項対立そのものがそのような「分類」であることはさておいて、病気は、それが分類され区別されるかぎりで、“客観的”に存在する。たとえば、医者がそう命名するかぎりでわれわれは病気なのであり、“病識”がなくても病気であることもあれば、当人が苦しんでいても病気ではないとされることもある。また、“分裂病者”と二人だけでいれば、どちらが病的なのか確信できない。病気は、未開段階から歴史的に、ある分類(記号論的体系)によって“存在”してきたのであり、個々人の病識から独立し、また医者患者の関係からも独立するような“客観的”な病気は、実は近代科学によって作り出された表象である。」276
