隠喩としての建築 (講談社学術文庫 866)

4件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年4月7日読んでる彼ら(スーザン・ソンターグとジョージ・シュタイナー)はどういうわけか恐しく傲慢で、たとえば日本人などから何一つ学ぶことはないと思いこんでいる。 …… したがって、私にとってこの本(『隠喩としての病い』スーザン・ソンターグ)の面白さは、この本に書かれていることよりも、むしろ書かれていないことにある。それは私に多くの事柄を考えさせるが、すでにいったように、ソンターグは日本人などから何一つ学ぶことがないほど優れた批評家なのである。 (「『隠喩としての病い』にふれて」 p.283) 「日本人などから何一つ学ぶことがないほど優れた批評家」ソンターグにより「書かれていないこと」、そこにこそ(日本人の批評家である著者が)学ぶべき価値のある空間が広がっている、ということ。 そして、そういうところに「面白さ」を感じているということ。 ソンターグという批評家につけられた「優れた」という修辞には、密かに致死量レベルの毒が盛られている。ソンターグ崇拝の(当時の)ムーブメントこそ「病」である、ということを文章という身体で以て隠喩として訴えているのでは。 そう考えてゾッとする。 しっかりと受け止めた上でしなやかに流す、 その背中に振り下ろす「面白さ」という一太刀。 その切れ味の凄み。 タイトルの通り、著者という健康な身体(=批評)は、「『隠喩としての病い』にふれて」みせている。 そんな流行性感冒のような「病い」には全く冒されることはないという自負。そして、「日本人などから何一つ学ぶことがないほど優れた批評家」ソンターグのような「病い」からでも反面教師的に「健康(健全)」を学べることはあるのだという矜持。 「毒を以て毒を制す」、とはまさにこのこと。 それを最後のたった二つのセンテンスだけでスパッとやってのける、必殺仕事人みたく。 批評という名を借りた(精神)衛生学。
Ryu@dododokado2026年3月10日かつて読んだまた読んでる「戦後世界は、米ソ両陣営によって二分されてきた。これほどまでに単純な二項対立(形而上学)が全世界を支配したことはかつてない。それを支えてきたのは、核というよりも、実は「核の均衡」である。米ソの「核の均衡」は、たえまない競争によって維持されている。だが、米ソにとって肝心なのは、現実的な対決ではなく「均衡」であり、その均衡の下で世界の二元構造を維持することである。実際この二元構造は、それ以前なら戦争によって解決されたかもしれない多様な葛藤を吸収してきた。一方、それは、この二元性をこえようとする試み──人間主義(疎外論・身体論)や「第三世界」に根拠を求める──を、結局そこに吸収してしまう装置であった。たとえば、一国の内部でいかに「第三の道」が追求されたとしても、それがある水準まで現実化されれば、必ずこの二元構造に組みこまれてしまう。どんな革命・戦争も米ソの“代理戦争”となるほかないのである。」197-8 「病気が「意味」だとすれば、健康もそうである。というより、現在支配的なのは健康という「病い」であろう。たとえば、ひとびとは禁煙し、ジョギングをやる。政治的にも、”"健康”なイデオロギーが支配的となっている。したがって、私が強調したくなるのは、むしろ「病者の光学」(ニーチェ)なのである。」271 「身体的な病気と精神病の区別も、もちろん「分類」である。そもそも病気と健康の二項対立そのものがそのような「分類」であることはさておいて、病気は、それが分類され区別されるかぎりで、“客観的”に存在する。たとえば、医者がそう命名するかぎりでわれわれは病気なのであり、“病識”がなくても病気であることもあれば、当人が苦しんでいても病気ではないとされることもある。また、“分裂病者”と二人だけでいれば、どちらが病的なのか確信できない。病気は、未開段階から歴史的に、ある分類(記号論的体系)によって“存在”してきたのであり、個々人の病識から独立し、また医者患者の関係からも独立するような“客観的”な病気は、実は近代科学によって作り出された表象である。」276


