
沙南
@tera_37
2026年3月10日
失われた貌
櫻田智也
読み終わった
「ケトルで湯を沸かしはじめたところにスマホが鳴った。」
おもしろくて不眠が加速した。ミステリ小説で涙が出たのは初めての経験だった。読み終わってふと帯に目を落とすと、「どんでん返し」と大きく書かれているのが余計なひと言に思えてしまった。もちろん評判のとおり、数多の伏線がひとつに繋がる結末は大変美しいと感じたけれど、この物語の核はそこではないと、私はあえて言い切りたい。
ネタバレになるかも
↓
私はこの小説の登場人物をすごく気に入っている。矛盾を抱えているけど憎めない、ユーモアがあって人間味に溢れている。人物の描き方が誰一人手を抜くことなく丁寧だからこそ、私は主要人物全員に共感せずにはいられなかった。その結果、最後には一人ひとりののっぴきならない事情、変えることのできない真実、全員の思いが交錯して、自然と涙が溢れてしまった。全員が今、そこに立って息をしているかのような感覚だった。
この登場人物の魅力は、緻密な比喩と情景によっていっそう際立っている。景色が鮮明に描かれるほどに、そこで息をする人物たちの心のうちもまた、あざやかに浮かび上がってくる。月の満ち欠けを用いて心情や物語の行末を示唆するところは、どこか純文学を想起させる。とても好み。会話や行動が主となるミステリで、こうした象徴的な表現を取り扱うのは珍しいなと思った。
このあと他のミステリ小説を読むたびに、この作品と比較してしまうかもしれない。比較してさらに双方の魅力が増すような、そんな力も持っている作品だとも思った。

