
kiyu
@soudensen
2026年3月8日
他者の苦痛へのまなざし
スーザン・ソンタグ,
北条文緒
読み終わった
遠い異国的な土地であればあるほど、われわれは死者や死の間際にある人々をあますところなく真正面から捉える傾向がある。p.69
他者が遭遇し、映像によって確認される苦しみへの想像上の接近は、遠隔の地で苦しむ者(テレビ画面でクローズアップされる)と特権的な視聴者とのつながりを示唆するが、それはけっして本物ではないし、権力とわれわれとの真の関係を今一度ぼやかしてしまうだけである。同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない──われわれが想像したくないような仕方で──という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。pp.101-102
写真が提供する抽象化された現実には道徳的に是認できないものがある。人間は他者の苦しみを、距離を置いた地点から生々しさを削ぎ落としたかたちで経験する権利はなく、従来賞賛されてきた、視覚のもつすばらしい性質にたいしてあまりに大きな人間的(ないし道徳的)代価──世界のなかの攻撃や侵略から一歩退き、そのために観察をして選択したものにのみ注意を向けることが可能だという──を支払っている。しかしこれは知性そのものの機能を言い換えているに過ぎない。
一歩退いて考えることは何ら間違っていない。何人かの賢者のことばをパラフレーズするならば、「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」。pp.118-119