Ryu "ひとごと" 2026年3月11日

Ryu
Ryu
@dododokado
2026年3月11日
ひとごと
ひとごと
福尾匠
「空間のことを考えている。感染経路、クラスター。そこで問題になっているのはつねにウイルスの換喩だ。なにを経路としなにをクラスターとするのかは人為的に決定される。ウィルスは細胞を宿主とするがわれわれはウィルスを増殖させる細胞群をクラスターとは呼ばない。武漢はクラスターだろうか。飛行機は経路だろうかクラスターだろうか。ダイヤモンド・プリンセス号は、パチンコ店は、通勤電車は、不謹慎な旅行者は......たしかにわれわれ(これも換喩だ)はウィルスに対していまのところ換喩のレベルでしか介入できないが、こうした換喩は社会的な価値づけをともなっているということも警戒され続けるべきだろう。換喩ドリブンのソーシャルなディスタンス。ソーシャル・ディスタンスと聞くといつも社交ダンスを連想してしまう。」44 「ここに経路とクラスターという換喩による清潔=自粛/不潔=不謹慎の分割、その究極的なバージョンとしての地球平面説、インスタレーションをめぐるアンチ・フォーマリズム的な実践と言説が結線する。同時に気になってくるのは、ここでは隠喩的でないリテラルな実体とされるネットワークは本当にそのようなものとして考えることができるのかということだ。つまりこのテクストで、隠喩でしかないものとされるカギカッコつきの「空間」というもののリテラリティはネットワークに還元可能なのだろうか。新型コロナウイルスをめくる状況にせよあるいは喫煙者排除の傾向にせよ、むしろ拡がりとしてのリテラルな空間を抑圧して、壁や経路やキャリアーといった換喩の総体によって構成される隠喩としての「ネットワーク」に依存しているように思われるからだ。どうしてこのテクストではつねに空間化と隠喩化はイコールでつながれたものとして考えられているのだろうか。隠喩でない空間などなく、ネットワークとその綻びに潜む不気味なものだけが存在するのだろうか。」58-9 「これはインスタレーション・アートにおいてフォーマリズム(主体性の滅却)でも制度批判やアクティブあるいはインタラクティブな鑑賞(なにかの中にいるということの絶対化)でもなく、なにかの中にいるということの不確実性を考えるということとひとつながりになっている。「ありうる(pouvoir)」ということを、「ある/ない」の決定(それが事後的なものであれ束の間のものであれ)において考えるのではなく、「あってもいいし、なくてもいい」という非決定においてポジティブに考えること。この差異はドゥルーズ(とガタリ)の概念で言えば「離接的綜合の排他的用法(あれか、これか)」と「離接的綜合の包括的用法(あれであれ、これであれ)」の対立にあたる。 そして可能なものを主体の中心化の契機としてでなく世界への霧消の契機として考えることは、換喩というものの排他的でない用法を考えることにつながるように思われる。窓に映った光は太陽の換喩なのだろうか詩人の換喩なのだろうか。」68 「やさしさが宿るのは、だれかと一緒にどろどろにとろけてしまうことのできない悲しさの距離のなかであるとともに、だれかのふりをして、だれかの代わりに話す嘘のなかだ。お墓のうしろでだれかが代わりに応えてくれている。やさしさはひとにだれかのふりをさせる。共感の時代を「私は私、われわれはわれわれ、お前はお前」の時代にしないやさしさの実験を、その対決の恐ろしさとともにこの本は引き受けている。」115 「見ることと書くことのあいだにある回路は、この事実と比喩が識別不可能になる点をめぐっているように思える(『シネマ』にはこれに近いことを指す「結晶イメージ」という概念が出てくる)。見たものを書いているのか、頭のなかに書いてしまったものを見ているのか。それらは前後し、すれ違い、反転する。これはたんに見まちがいを擁護するということではない。「見て、書く」ことの読点に、哲学さえもそこに含まれるフィクションとしての創造の原器を、僕は見ている。」147 「ふたつめの軸は〈イベントフルネス/イベントレスネス〉で、ひとことで言えば暇であること、書くべきことの少なさに対応するような言葉のありかたに興味があった。メタテクストの全面化が言葉の形式面に関わることだとすれば、内容面には論説するべきオピニオンやシェアするべきイベントの横溢があり、その両面にそつなく対応することがソーシャル・スキルなのだということになる。」165 「つまりこういうことだ。一方にしゃちこばったセルフディシプリン、つまり社会人としての自己管理があって、他方に律せられたりある程度許容されたりする不埒さがあるのではない。あるいは一方に「日常」や「暮らし」という言葉に託されるような微温的な持続があって、他方に冷たい社会の荒波があるのでもない。自己を律するのも何気ない日常を愛でるのも、日記を長続きさせるのに十分な態度ではない。なぜなら、最初に言ったように、毎日日記を書くということはつまらない文章を書くということで、そのつまらなさはこのふたつの態度のいずれからも逸脱しているからだ。 日記がつまらなくなるのは、日々がどうしようもなくつまらなさに巻き込まれているからだ。しかし、日記を書き続けるということは、そのときどきのつまらなさすら、恥も外聞もなく通り過ぎられる気分のひとつにすることでもある。」205 「作品の単位性、歴史の単線性(に対するマイナーな歴史による抵抗)、理論(抽象)と実践(具体)の分割といった前提を廣瀬氏は条件にしているように思われるが、私は作品の経験が霧消し、そもそもメジャーな歴史がなく、言葉とイメージが同一平面で干渉するような状況を前提としている。だからこそ、そこにある危うさにあたらかぎり自覚的でありながら、時間イメージ的な生成を映画から解き放ったうえで「選択」し、そこに賭けたのだ。「作品未満」のものに取り込まれることの貧しさ、そこにいる私たちに固有の創造性のために。」217
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