
あざらしシンイチ
@reads0106
2026年1月16日

読み終わった
難波『性的であるとはどのようなことか』は、性的な広告を軸に、性的なものの悪さと、えっちなものの可能性を論じる分析美学の本である。著者の考えに100%賛成するわけではないし、分析にも不満点はあるのだが、「えっちさ」という言葉はかなりよく練られていて、有用な切り口だと思った。意欲的な本で、とても満足した。とはいえ、分析美学には全く明るくないのでどこまで正しいのか、新規性のある切り出し方なのかはわからないが...
本屋で見かけたときにはそこまで惹かれなかったのだが、性的な広告の話をモチベに持ってきていると知って読んだ。はじめにで、著者がポルノグラフィを愛する一方で、性的な広告には嫌悪感を抱く立場だとわかり、この一見矛盾する態度をどう止揚するのかに資源が投下される本なのだろうな、と予感する。個人的にも、二次元コンテンツにどっぷりのオタクである一方で、フェミニズムにはかなり同調的な立場だし、オタクとしてもエロコンテンツ自体は嫌いではない。しかし、それを求めていないときに性的な描写を見せられたり、官能的な造形のキャラクターを見せられたりすることには苦痛があるので、かなり自分ごととして読めた。
序章では、表現の自由と性的コンテンツ規制のすれ違いの背景に、まず「性的なもの」の定義のズレがあることが指摘される。性行為に関わるもの、人間の裸体や性器に関わるもの、性的興奮を催させるもの。特に三つ目が主観的な見方である以上、すれ違いが起こるのも自然だろう。加えて、性的であることと、えっちであることは別だとされる。えっちであることは美的判断であり、たとえばオタクは二次元イラストを、単に性的なものとしてというより、えっちなものとして嗜好している。もちろん、性的であり、かつえっちであることはあり得るのだが。
1章では、ポルノグラフィ研究における「悪さ」が、態度、行為、影響の三つに整理される。態度の悪さは、作り手の差別的な価値観、いわゆるモノ化を反映している点にある。これは作り手の意図とは必ずしも関係なく、受け手の主観と構造的差別の程度によって判断される。行為の悪さは、それを提示すること自体がメッセージ性を発する行為である、という点にある。ここでも意図は中心ではない。オースティンの発語内行為を作品にまで拡張する議論が参照される。影響の悪さは、単に社会に悪影響を与えるという点で、概念上は理解しやすいが、その働き方は複雑で、以降の章で掘り下げられる。なお、こうした議論は道徳的悪さの話であって、作品の評価とは関係ないとする立場もあるが、コラムでは道徳的価値が芸術的・美的価値にも反映されるとしていた。個人的には、社会設計の観点では道徳的価値だけに立脚すればよいようにも思うので、この点はやや蛇足にも感じた。
2章では、影響の悪さに関して、性的な広告が空間に差別的な価値観に基づいた雰囲気を醸成し、不正義を再生産することが論じられる。サラ・アーメッドの情動の議論や、ミランダ・フリッカーの認識的不正義の議論が援用されていて、この辺りはフェミニズムにある程度馴染みがあれば「まあそうだよね」と読めるし、かなり説得的だった。ただ、実践的な話になると詰めが甘く、やや非現実的なことも言っている。美学者の本なので仕方ないのかもしれないが、個人的には、ゾーニングのような慣習について、もう少し具体的な分析が知りたかった。なお、構造的差別や権力勾配の概念に馴染みがない人や、そこを切り離して分析したい人にとっては、この章はかなりもやるだろうなとも思う。これはルッキズムの議論にも当てはまる。私は、男性差別やルッキズムも女性差別の裏返しとして理解する立場なので、こういう議論は割とそのまま受け止められるのだが、弱者男性論のようなものに帰依している人には、たしかに読みづらい本だろうなと思った。その一方で、フェミニズムが使う「女性差別」や「家父長制」は概念としてかなり広く、指摘のクリティカルさに比べると、いまの時代にはややわかりにくく、名前の側はもう少しどうにかならないのかな、という気持ちも残る。
3章の「性的ペルソナ」は、かなり私的な感覚に寄り添った章だった。人は性的欲求に限らず、欲求を抱くタイミングをコントロールしたいという二次の欲求を持っており、広告一般にはその意思決定の自由を損なう機能がある。そのうえで、恥とペルソナの議論から、特に性的な広告がなぜ悪いのかが論じられる。性的欲求はプライベートなものであって、公共空間で抱くものではないにもかかわらず、それを強制的に抱かせる点で、これはあらゆる人にとって悪い。さらに、性的な広告は、従属的な、というより性的に消費される側としての女性のイメージを氾濫させることで、女性のペルソナ形成を歪めてもしまう。この章の議論は、自分の感覚とかなり近い。ただ、広告や公共空間の議論である以上、どうしても話が社会的な観点へ進んでいくのだが、そこには少し不満もある。もちろん大事なことではあるのだが、自分の苦しさは、他人に対する何かから来ているというよりも、むしろプライベートの領域すら侵食されることから来ている気がするので、二階の欲求の掘り下げはもっと欲しかった。あと、そもそも自分が嗜むのは基本的にフィクションなので、非実在青少年をめぐる議論こそ知りたかった、というのもある。そこは単に自分の選好と本の焦点が噛み合っていなかったのかもしれない。
4章以降では、話の中心が「性的なもの」から「えっちなもの」へ移る。4章では、えっちさが美的な感覚として論じられ、それが崇高のえっちさと、崩れのえっちさに分けて捉えられる。前者は、いわばエロティックなものの正統的な概念で、バタイユのいう、完全なるものへの接続の欲求に近い。他方、後者はそれとは別の、むしろ非西欧的な感覚として論じられる。知識を通して大きなものにつながる感覚、生物の進化や、その過程で消えていった種に心を配ること、異なる他者との合一、オーガズムがフランス語で「小さな死」、日本語で「絶頂」と呼ばれること。エロティックなものはカント以降、美学から切り離されてきたが、その後ふたたび分析されてきた。西洋哲学では、完璧なものへの漸近から来るエロティックさばかりが注目されてきたが、「いき」をはじめとして、崩れのえっちさというものもある。共苦と距離、やましさ、目の前の苦しむ人と自分は違う存在であること、自分にも訪れうるかもしれないものを知ること、一体化できない哀しみ、ケアへの欲求。現代社会においては、性的欲求それ自体が、えっちさという美的なものに基礎づけられているのではないか。だとすれば、性的広告は私たちの美的感覚を強制的に揺るがし、汚染してしまうものでもあるのではないか。その一方で、その経験を通じて、自分自身の美的感覚を発見する契機にもなりうる。ここはかなり著者の独自色が強い章だが、納得感はあった。個人的には、むしろ、えっちさが自分の核になる美的感覚であり、しかも性的嗜好と切り離せないものなのだとすれば、それが過度に性的な表象によって汚染されることは、まったく望ましくないことなのではないか、という気持ちが強い。
5章の「セクシーな徳」は、正直まだ上手くまとめ切れていない。高尚な美徳というより、自分の美的な魅力を発見していこう、そしてそれがケアのあるものになり、相互に承認できるようになればいいよね、という話なのだろうか。差別に抵抗するための美学として読むのがいちばん近い気がする。
6章の「えっちの力」は、ワードによるエロティックなものと連帯、そして力に対するえっちなものを論じる。二分法的な「性的なもの」を超えて、より多様で、理解不能で、時間を通じて揺らぐ「えっちなもの」を見ていくこと、自分自身のえっちな感性を見つめることが、逆説的に、理解不能な他者への理解へとつながるのではないか、という議論である。連帯が持つ排除を超えようとする発想でもある。まだ完全に掴みきれているわけではないが、かなりユニークな議論だった。性的広告の話に実践的に結びつくかは読者次第だと思うが、それ以上のものはたしかにある。人文学の人が書いているので、フェミニズムや反差別の議論にもかなり紙幅が割かれているし、そもそも「えっちなもの」というワーディング自体が人を選ぶかもしれない。
最終的にこの本は、性的なものへの渇望が、それこそ「家父長制」と呼ばれてきた構造を反映し、構造的差別を強化するものであることを突きつける一方で、私たちが感じるえっちさは単なる性的欲求ではなく、美的な判断でもあるのだと捉え直し、二分法を超え、暴力の根絶につながる可能性まで切り拓こうとする。著者の考えに全面的に賛成しているわけではないし、実践的な詰めの甘さもあるのだが、それでもかなり意欲的で、読んでよかったと思う本だった。


