性的であるとはどのようなことか (光文社新書)

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くりーむ@cream2026年1月12日読んでる第二部を読み始めました。 第一部は、性的なもの(例えば性的な広告)はなぜいけないか、が分節され細かく論じられており、なるほどなあとおもうところが多くありました。 しかし、第二部の面白さは、第一部のそれと比べ物にならない、です(とうぜんこれは、私の趣味が関係しているともいえるとおもいますが)。 たとえば次のような一節があります: 「そしてしばしば、オーガズムを迎えることと死は類似したものとして扱われるし、様々なポルノグラフィやフィクションでも、オーガズムは絶命になぞられられてきた。これはおかしなことではないだろう。絶頂とは死のミニチュアである。死が自他の区別を消し去る喜びなのだとしたら、死なずして死ねる機能をオーガズムが果たしてくれる。フランス語ではオーガズムを「小さな死(la petite mort)」と呼ぶそうだが、ことの次第をよく表している。」 全体的にとても饒舌で、読んでいて楽しい、です(私がそう感じるだけかもしれないが)。
くりーむ@cream2026年1月12日読み終わった著者はまず、えっちさに2つの根本的な分類があると論じ、一方を、崇高のえっちさ、もう一方を、崩れのえっちさ、と呼ぶ。 えっちな経験においては、両者が同時に作動していうるが、基本的には、前者は憧れの感情に結びつき・同化することを求め、後者は共苦に結びつき・ともにあることを志向する説明される。そのうえで両者は、 1. (謎をもった・理解不能な)他者との距離が経験されること 2. その距離が、根本的に埋められないことも経験すること の2点を共有しているのだと、論じる。 この関係をベースに、著者はえっちであることとエロいこと(微妙に用語法が違うのだが)の区別に言及している。以下、引用する: 「エロティックさに対して、えっちさとは、境界にとどまることだ。それは境界を超えないと願わせる力であるが、しかし、境界を飛び越えるような思い切りのよさ、身軽さはない。そこには、どうしても境界を超えることができない重さと、それゆえの影がある。ゆえにえっちであることは、連帯ではなく停滞である。それはともに手をつなぐことができないことをむしろえっちがり、祝福し、讃える態度だ。」(p.188) これには喰らってしまった。本を読んでいてパンチを喰らうことって、めったにないのだけど、あまりにも図星だとおもった(私が、エロいではなく、えっちという言葉を用いることにかんして)。とうぜん、これで両者の違いのすべてが尽くされたとはおもわないが、しかしこれは核心をついているように、私にはおもえました。

くりーむ@cream2026年1月12日読み終わった一点だけ、疑問を述べます: 著者は、えっちさにおける、「距離が、根本的に埋められないことも経験する」ということについて、しかしこれは、哀しみであると同時に「知る喜び」を併せ持つのだ、と論じています。 それは確かにそうだとおもう。 著者はさらに展開して、「謎めき」をもつということが一種の徳なのではないか、というところに至ります。 たしかにこれも、説得力がある。 一方で、これらの判断を根本的に支えているのは、何かを知るということを至上の喜びとする感性なのではないか、という気もしてしまいます。つまり、謎めくということが、或いは距離が埋められないという経験がもつ喜びは、実は一般には、限定的である可能性があるのではないか、とおもっています。 この疑問は、近年の(ひょっとしたら伝統的な?)反啓蒙的な言説をみていると、真実であるということは(そして、何かを知るということは)、それほど価値あるものとしてみられていないんじゃないか、という気がしてくる、という経験に根ざしています。どうなんでしょう。












