
蒼凍星
@ClarideKieferBurgin
2026年2月15日
ビルバオーニューヨークービルバオ
キルメン・ウリベ,
金子奈美
P 8
診察室から出たとき、母は何と声をかけてよいかわからなかった。長い沈黙のあと、バスに乗って帰りましょうか、と祖父に尋ねた。彼は首を振った。
「まだ家には戻らないよ。今日はビルバオで過ごそう。見せたいものがあるんだ」と祖父は言い、微笑んでみせようとした。
祖父は母をビルバオ美術館へ連れていった。母はけっしてその日を忘れないだろう。祖父が、死にかけていると告げられたまさにその日、美術館に連れていってくれたことを。美は死を超越して生き続けるのだと、むなしくも伝えようとしてくれたことを。そのあまりにつらい日の別の思い出を、母が胸にしまっておけるようにと努めてくれたことを。そうした祖父の思いやりを、母は一生忘れることがないだろう。
彼女が美術館に足を踏み入れたのは、それが初めてだった。
誤ってポストを削除してしまった。
無意識的に消してしまったような気がする。
深い心の傷は、思ったより深いのかもしれない。
その傷をそっと手当てしてくれた、この本のこの冒頭部分。
繰り返し読み過ぎて、すでに自分の記憶の一部として取り込んでしまったように思う。
記憶を振り返るとき、裂傷の痕跡を思い出すより先に、これからはこの物語が私を護ってくれる。
聴きすぎた歌の歌詞、見過ぎた映画のワンシーン、読み過ぎた本の一部分。私のなかで、それらはどれもパッチとして機能している。
父はよく、”股引”のことを「パッチ」と呼んでいたけれども。
どうでもいいような日常の風景は、なくなってみて初めてどうでもよくはなくなる。失ってみなければ、気付けないものなのだろうか。