
ジクロロ
@jirowcrew
2026年3月13日

暴力の考古学(1006)
ピエール・クラストル,
毬藻充
読んでる
周知のように、もはや世界中のどこにも、「白人」流の社会-経済的環境と接触のない、完全に自由で、自律的な未開社会などはほとんど存在していない。
言いかえれば、社会を規定し支えている伝統的な力の働きが、むきだしのまま表現されることができるほどに十分に孤立しているような社会を、もはや民族学者はあまり観察する機会を持ってはいないのである。未開社会の戦争は不可視である。なぜなら、もはやそれを遂行する戦士が存在しないからである。
……
今日の民族学のなかに暴力についての考察がない理由は、第一には戦争がじっさいに消滅しているという事実によって説明されうるだろう。
戦争が消滅したのは、自由が失われてしまった結果であり、<未開人>はこの自由の喪失によって見せかけの平和主義のなかに住まわされているのだ。
(p.17-19)
「未開社会の戦争は不可視である。なぜなら、もはやそれを遂行する戦士が存在しないからである。」
ーー読んでいて不思議な気持ちになる。
自分の感じている現代がクラストルの描写する「未開社会」のようであり、今の自分がここで言われる<未開人>と同じ立場にあると気づく。
「戦争が消滅したのは、自由が失われてしまった結果」
その言説にかなり驚かされるが、悪意のない失言一つで人生を終わりにされるような今の世の中において、何かとこぢんまりとおさまるように仕向けられる窮屈なこの状況を冷静に見つめると、クラストルの主張もあながち言い過ぎではないようにも思える。
戦争の芽を全力で摘もうとする全方位監視・取り締まりもまた、一つの非むきだしの戦争であるということ。
守るべきものとしての自由があり、守らなければ消滅するという不安があるからこそ、戦争は内側に潜在し、ときに外側に現象としてあらわれるということ。
地球の表面の「開拓」をすでに終えた現代において、〈未開人〉と呼べる人は誰か、という自分に残された問い。
