DN/HP "すべての美しい馬" 2026年3月16日

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2026年3月16日
すべての美しい馬
すべての美しい馬
コーマック・マッカーシー,
黒原敏行
素晴らしかった。とても美しかった。 主人公、ジョン・グレイディ・コールの、大切だと思えるものだけとともに、今ここでは無い、どこかにあるのかもわからない自らの「居場所」、納得できる生き方が出来る場所 ——それは「逆方向の不法入国者(モハード・レベルソ)」として国境を越えた先かもしれないし、愛する誰かの隣かもしれない—— を求め続ける人生は、喜びや楽しみの何倍もの困難や苦痛、悲しみに満ちているしやはり何処にいても「この世はままならない」けれど、だからこそその人生は美しく描き出されるのかもしれない。 ただ、わたしは彼の親友であり、共に旅をはじめ途中までその過酷な人生を共にするレイシー・ロリンズのように、飄々とした態度を装いながら、ときに世界に凹まされへこたれながらも、天然で世界の「真理」のようなものに肉薄したりもしつつ、あきらめることを選択することで旅立つ前の「日常」に戻りそこに留まるような生き方の方に共感していたりするのだった。だって、やっぱり、人はそんなに強くはいられないし、人生ってそういうもんじゃん、とか思いながら。 この物語では主人公はじめ登場人物の何人かは馬を愛している、というのは本当にそうだとは思うのだけど、その上でというかそれと同時にままならない世界のなかで唯一コントロール出来るもの(正当に所有しうる唯一の財産とも)としても捉えている。だから主人公は自分の馬は決して手放そうとはしないし、奪われればどんなことをしても取り戻そうとする(終盤はまさにそういう話だ)。馬の手綱を手放さないということは、つまりは自分の人生のコントロールを手放さないということの象徴でもある、のかもしれない。 一方で共に旅に出たレイシー・ロリンズは道半ばでその手綱を手放してしまう。その選択自体は間違っていないと思うし、それは彼なりの人生をコントロールするための、あるいは奪われないための方法だった、とも思いたいのだけれど、そんな彼に主人公はもう一度馬の手綱を、象徴としての人生のコントロールを握らせてくれるのだった。その行為、友情に感動したし、わたしも少し救われもした気もしていた。 少し前に読み終わっていたこの小説をバッグに入れて出かけた土曜日の午後、坂の上の公園の陽の当たるベンチに腰掛けて付箋を追いつつ、そんなことを改めて考えていたら、人生のコントロールを失いそうになった後、「日常」に戻り損ねそうになっているわたしにももう一度その手綱を握らせてくれようとしてくれた(とわたしは思っている)友人たちのことを思いはじめていた。しかし、それを確かに握った、とは言い切れないのが心苦しい。ありがとうと申し訳なさ。それでもそれが物語だとしたら、わたしは親友役には随分と役不足だろうけれど、その友人たちのことは大切に美しく語れる、語りたい。勝手にそんなことを思っていた。少し泣きたいとも思った。涙の前に汗と鼻水が流れてきた。歌でも歌うか。 と小説の中で出会った印象的なセリフを思い浮かべて、最近のお気に入りの歌を少し口ずさもうとしてみる。 🎶 ‎ EVISBEATS, Nagipan 《Taste of Life feat. Midique》 「かりに居心地悪い感じがしてるのになぜだかわからんとするな。するとそいつはいるべきでない場所にいるのにそれに気づいてないってことか?」 「いったい何の話だ?」 「わからん。何でもないよ。歌でも歌うか。」 こんな風に表面上のわからなさと同時に深いところでわかり合えているような会話が出来たとしたら、やっぱり歌でも歌うか、という気分にもなるのではないか。 素晴らしくて美しい小説を読んだことについて書こうとすれば、多少エモーショナルにもならざるを得ない。これは照れ隠し。
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