綾鷹
@ayataka
2026年3月18日
図書館を建てる、図書館で暮らす
山本貴光,
橋本麻里
2019年末に建ちあがった、膨大な蔵書を収める家〈森の図書館〉。2人の施主が、普請のプロセスや、そこで過ごすなかで考えたことをつづり、デジタルだけでは実現できない、「本のある空間」の効用をさぐる。蔵書と家と人との関係をめぐる実践的ドキュメント。
自分の人生で大切なもののための家。
利便さ等のありきたりな理由で住む場所を選んだ自分としてはとても憧れる。
・また、プロジェクト開始当初から漠然と頭にあり、途中から<森の図書館)のもう一人の施主となった、伴侶の山本貴光さんと話し合う中で、確言を深めている考えがある。それが、立体的な空間に本棚を配置し、そこに紙の本を並べることの、積極的な意義だ。ページを開いて読むまでもなく、何らかの分類に従って配架された、ジャンルごとのブロックや流れを眺めているだけで、置かれた本を読んだ時の記憶が甦ったり、未読であってもその本と繋がる知識が呼び出されたり、さらに連想が働いて閃きが生まれたりーといった知的活動が、脳内で自動的にスタートする。これは目的があって必死で考えるというより、バックグラウンドで脳が勝手に動いているイメージだ。
こうして膨大な連想を紡ぎ出す本たちを、リシャッフルし、配架の仕方を変えるだけで、まったく新しい着想を呼び込むこともできる。たとえば東洋史、哲学、科学など、基本的な分類に従って配架していれば隣り合うことのない本の中から、当面の仕事に必要そうな本を抜き出し、仕事机の横に並べると、見えてくる景色、書こうと思っていた見通しが一変することもある。
また記憶は物理的、空間的な認識と結びつくことで強化されるらしい。書架のどの位置にどんな本があるか、四層の建物内それぞれに設置された書架の前で日々暮らすことで、X、Y、Z軸上の座標が少しずつきめ細やかに把握されてくる。万単位の本の中から、目当ての本の配架位置を見つけることは、決して難しくない。ところが同じことを電子書籍でやろうとしても、ほとんど不可能だ。私以上の蔵書家でもある貴光さんは、その一部、一万冊を超える本を電子書籍化している。だが電書の中から、その時の課題の参考になりそうな文献を探し出すのは、容易ではない。書名を挙げて所蔵の有無を訊かれれば、即座に答えられても、たとえば明治時代の日本語文法について考える時、参考になりそうな文献を電書の海の中からピックアップするのは、限りなく難しい。
立体的な空間の中で、本同士が増殖する神経細胞のようにつながりあっていく、あるいは小さな生態系が形成されていくことにも似た事象を、私たちは日々体験している。
・急がない本は近所に注文する。ゲームをつくったり本を書いたりするための参考資料を探すときはネット書店も使う。ただ、可能な限り神保町の古書店街、東京堂書店や三省堂書店をはじめ、渋谷、新宿、池袋あたりの書店に赴く。行く先々で本屋があれば入る。自分の狭い関心では思いつかないようなものに遭遇したいから。それにはピンポイントで検索できるネットもいいけれど、棚のあいだを歩くのがなによりだ。そのつどこちらの頭にある関心事と書棚のあいだで発見と驚きの火花が生じる。
例えば、ファッションのゲームをつくりたい。そう思って歩く。すると以前は目に入っていなかった海野弘『ココ・シャネルの星座』(中公文庫)が視界に飛び込んでくる。その近くの『失敗の本質』
(中公文庫)も気になる。そういえば、と歴史コーナーに移動する。当初の目的はどこへやら。そうして書棚のラビリンスで遊びながら、本を抱えきれなくなる頃、ようやくレジへ向かう。書店ごとに棚の様子も違うので、同じ関心事を念頭に訪れても違う発見が生じる。あとは体力と資力だけが問題だ。
・自分の例で恐縮だが、私は小学生の頃にコンピュータに興味を持ち始め、中学・高校と、雑誌や本やゲームを材料として独学でプログラミングを身につけた。それは一九八〇年代のことで、周りの大人たちは、「そんなことしてなんになるの?」という顔をしていたと思う。また、なんの役に立つかということはほとんど考えないまま、ただ面白いからいろんな本を集めて読んできた。同じようにアナログかデジタルかを問わず、たくさんのゲームで遊んできた。
後にそれらのことはどうなったか。大学を卒業してどこかに就職しなければなあとなったとき、ゲーム会社を選んだ。ゲームクリエイターになりたいと思っていたわけではない。それまでゲームクリエイターになりたいと思ったこともなかった。ただ、すでに一〇年ほどプログラミングの経験があったし、山ほどゲームを触っていたので、これなら仕事にできそうだと思ったのだった。さらにその後、本を書いたり、専門学校や大学でものを教えるようになった。いまは東京工業大学(二〇二四年一〇月以降は東京科学大学と改称)で哲学を担当している。これも物書きになろうとか先生になろうと目指してそうなったわけではない。たまさか機会が巡ってきたとき、ものを書いたり、教壇に立ったりしているだけだ。
そうしたことを(十分であるかどうかはさておき)曲がりなりにもなんとかこなせるのは、かつてなんの役に立つかを考えないまま、各方面の本を集め読んだり、ただ知りたいからというので古代ギリシア緒やラテン緒を習いに行ったり、自分で勝手にブログラムや文章を書いたりしていた経験があったからだ。仮にそうしたことをやってこなかったら、そもそもそれらの仕事をする機会自体が巡ってこないだろうし、仮にチャンスがあっても応じられなかったに違いない。つまり、役に立つかどうかとは関係なく続けてきたことが、状況との巡り合わせによって仕事に(も)なったわけである。
とれは自慢話とかではない。長年とりくんで身についたことが、あとから役に立ってしまう場合があるという例をお示ししたいと思ったのだった。もちろんあらゆることがそうなっていると言いたいわけではない。同じように好きでやってきたことのうち、楽器演奏や絵を描くことは相変わらず好きでやっているだけだったりする。
ただ、こんなふうにも考えられる。すでに社会や自分にとって「役に立つ」ことがはっきりしている物事ばかりを追いかけていると、ここに述べたような「役に立ってしまう」ケースを見落とすことになる。もう少し積極的に言えば、身につけたものは状況次第で役に立ってしまうものだ。逆に、身についていないことは、状況にかかわらず活用しようもないのは言うまでもない。
話を本に戻そう。いろいろな本を手元に集めたり、読んだりするのは、一見するとなんの役に立つか分からないことの最たるものだ。なにかしらの役に立つ要素があるように感じられず、やるだけ無駄と感じる人にとって、これほど無駄なこともないかもしれない。なにしろ少なくないお金と時間を使い、小さいとは言えない空間を本で埋めているというのだから。
他方で、ことに述べてきたように、手元にある本はいざとなれば活用できるし、読んで得た知識は状況や必要が生じれば使うこともできる。私がいま大学で哲学の講義をできるのは、まだまだ不十分とはいえ古今東画の哲学や学術にかかわる本を集め読み、場合によっては古代ギリシア語やラテン語もはじめとする言話を学んで原典を検討する、ということをしてきたからだ。ゲーム会社でアイデアを出したり、さまざまな方面の専門家と話したりする際にも集め読んだ本は役に立った。あるいはゲーム学やプログラミングについて講義を担当できるのも、ゲームで遊んだりつくったり分析したりしてきたからだ。先にも述べたように、私はそうしたことをなにかの役に立てようと思ってしたわけではなかった。
本にも、なにかの試験対策のためとか、確定申告のやり方、茶わん蒸しの作り方、レモンの育て方、シャツの縫い方を知りたいというふうに明確な目的のために選んで読む場合もあれば、ただ興味があるから読むという場合もある。前者がなにかの役に立つことは言うまでもない。後者もすべてがすべて後で役に立つわけではないにしても、思いがけず役に立ってしまうことがある。
・どんな本を集めて読むかは、完全に好きなようにできるわけではないものの、ある程度自分で選んだりコントロールできる。
他方で、社会でなにが重視されたり、価値を持ったりするかとか、どんな職業が生まれたり消えたりするかとか、自分がどんな状況に遭遇するかといったことについては、自分の意志でなんとかなる要素と同時に、自分の意志ではどうにもならない要素が混在しており、予測が難しい。将来なにが必要になるか、役に立つかのうち、現時点で分かっているものと、まったく分からないものとがある。現時点で役に立つことが明白なことだけやっておくという考え方もある。現時点では分からないことについてどうするか。私自身は、先にも述べたように将来なにが役に立つかを考えていない。でも、集めた本たちは、さまざまなことに役立ってしまっている。
これを普通に話すと、単に蔵書を持つことの言い訳をしているようにしか聞こえないと思う。それでも構わないといえば構わないのだけれど、こういうことがありますよというサンプルとしてご提示してみたのだった。
・私自身はいわゆる「私立文系」コースを辿ってきたが、自然科学への関心は常に保ち続けていた。
本との関わりで言えば、幼い頃は福音館書店の絵本「かがくのとも」シリーズに始まって、中学生でポピュラー科学誌の「Newton」(ニュートンプレス)に親しみ、何より惑星科学から生命の起源、そして宇宙開間までを平易、かつドラマティックに綴った名著、カール・セーガン『コスモス』上・下(木村繁訳・精成、朝日新聞社、一九八〇)との出会いが、大袈裟ではなく人生をーものの見方を変えた、と言っていい。それだけに、のちに「科学」や「工学」と呼ばれるようになる分野の知、すなわち「世界はなにからできているのか」「宇宙はどんな仕組みによって成り立っているのか」といった、人類にとっての根源的な問いを起点に据えた「世界を変えた書物」展には、深く心を動かされた。また当時、美術について書くことが仕事の中心になっていた自分にとって、アルブレヒト・デューラーやヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ルネ・デカルトらの書物を、哲学Jp自然科学の文脈の中で見直すことができたことも、大きな収穫だ。
私以外の多くの観客も、当然全員が理工系のバックグラウンドを持っていたわけではないはずなのに、同様の心境にあることが見てとれた。日頃はとかく文系・理系と、血液型占い程度に根拠も意味もない学術の線引きを常識としていても、過剰な専門分化に至る以前の学術の世界へ立ち戻ってみれば、自分と世界とをつなげる知の営みが、くっきりと目に映る。それがやはり心の深い部分を揺り動かすのだろう。