
綾鷹
@ayataka
2026年3月18日
とにかく散歩いたしましょう
小川洋子
人気作家の日常。締切を前に白紙の恐怖に怯え、店員とのやりとりに傷つき、ハダカデバネズミに心奪われる。たとえ何があっても、愛犬と散歩すれば前に進める・・・心温まるエッセー集。
わわわ。。とても好きなエッセイだった。
日常の小さな輝きの切り取り方が素晴らしい。
こんなに素晴らしいことに溢れているのに、なぜ私は見逃して過ごしているのだろうとはっとさせられる。
何より文章から小川洋子さんの優しい眼差し、温かい人柄が感じられて、自分もこんな人になれたらと憧憬する。
特に「散歩ばかりしている」「機嫌よく黙る」が好きだった。
・そこへ三つくらいの男の子とお父さんが通りかかった。
「パパ、まてまてごっこやろう」
まだ上手に回らないお口で男の子がせがむ。まてまてごっこ、とは何か。
「よし。さあ、まてまて」
そう言ってお父さんは、男の子の後ろを追いかけはじめた。ただそれだけのことなのである。
お父さんはなかなか追いつけない速さで、しかし両腕をのばして今にも捕まえようとする素振りを見せ、男の子は後ろを振り返って一生懸命走りながら、どこかでお父さんに捕まえてもらいたいという気持を隠せないでいる。一切余計な道具を使わずにすぐできる、何と簡潔で見事な遊びであろうか。私はしみじみ見入ってしまった。男の子は世界中に何一つ嘆きなどないという顔をしている。完璧な安心がそこにはある。
ああ、うちの息子も昔はこんな顔をしていたなあ、と私は思う。でも当時は、それがどれほどあっという間に過ぎ去ってしまう瞬間か、気づいていなかった。特別に与えられた一瞬だ、などとありがたく思う暇もなかった。自分はあのお父さんのように、心の底からその一瞬を味わっただろうか。日々のつまらない用事に手を取られ、貴重な時間を見過ごしてきたんじゃないだろうか。
親子の笑い声を聞きながら私は、何もかもが手遅れで取り返しがつかないような気分に陥る。
自分の愚かさを嘆く。
「ぼやぼやしている場合じゃありません。さあ、次の電信柱ですぞ」
痺れをきらせて犬は綱を引っ張る。
取り返しがつかないのに、どうして日々無事に過ぎてゆくのだろう。嘆いたあとに今度は、ふと不思議な気持になる。こんなふうに私と犬は、まるで嘆きを求めるかのように、また明日の朝、散歩に出かけるのだ。
・畑をやっていると、しゃがんでいる時間が長くなる、考えてみれば、以前はこんなふうに地面に視線を寄せることなどなかった。土で靴や洋服が汚れるのは嫌なことだったはずなのに、気が付けば、土の感触と匂いが大好きになっていた。
『沈黙の春』で有名なレイチェル・カーソンは、遺作『センス・オブ・ワンダー』の中で、「自然のいちばん繊細な手仕事は、小さなもののなかに見られます」(上遠恵子訳)と書いている。更に、その小さなものを見ようとする時に訪れる、人間サイズの尺度の枠から解き放たれる喜びについても触れている。
自分を小さくすればするほど、無力になればなるほど、偉大な自然の営みに気づかされる。
人間の頭脳だけでは決して作り出せない、ホーレン草やチンゲン菜やキャベツの不思議、ナメクジやアリや青虫の賢明さに心打たれる。人間が編み出した道具である言葉の通じない世界にひととき身を置くと、自分が壮大な世界の一部として、その大きさの中に包まれているのだ、と実感できて安堵する。これこそまさに、レイチェル・カーソンの言う、人間サイズの尺度からの解放だろう。
・生きているものも死んだものも皆旅をしている。終りのない旅の同行者である。というメッセージが本書の根底には流れているように思う。ただじっとそこに立っているだけの一本の木でさえ、鳥に実を運ばれ、洪水に根を流され、遠い海岸へたどり着き、やがてどこかの家の新ストープにくべられる。そうして原子に戻った木はまた新たな命の元となる。
私の祖父母は、父方も母方も両方、二十代の息子(私にとってのおじ)を病気で亡くしていた。一人は結校、一人は原因不明の突然死だった。彼らは少なくとも孫の私の前で、死んでしまった息子を話題にすることは一度もなかった。あの頃、幼い私には祖父母の気持をわずかでも思いやることなど、とてもできなかった。私にとって死んだおじたちは、ただ、古い写真の中のおじちゃん、でしかなかった。
祖父母はいつどんな場面で、息子のことを思い出していたのだろう。わざわざ思い出さなくても、いつでも心の中にいたのだろうか。死んだ息子と会話する時、もしかすると心の中には、ザトウクジラの水しぶきの音が響いていたかもしれない。できれば、そうであってほしいと、皆が死者になった今、「旅をする木』を読むたびに願っている。
・一番好きな本は何かと質問されると到底答えようがないが、一番好きな題名は何かと聞かれれば、すんなり答えられる。ジョン・マグレガー著、真野泰訳「奇跡も語る者がいなければ」。
これは一九九七年八月三十一日、イングランド北部のある通りに暮らす人々の一日を描写した小説で、読み進むうち、日常の小さな一場面たちが、目に見えない偉大な力によってつながり合ってゆく様子が、浮かび上がって見えてくるようになる。登場人物の一人は娘に向かい、横木にとまる鳩が一斉に飛び立つのを指差し、鳥同士ぶつからないのを見たかい?と問いかける。そしてこれは、気をつけていないと気づかずに終ってしまう、特別なことなのだと説く。
奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と。
この本の背表紙を見るたび、小説を考く意味を、誰かが耳元でささやいてくれているような気持になれる。鳥が一羽もぶつからずに飛び立ってゆく奇跡を書き記し、それに題名をつけて保存することが私の役割なのだ。私にもちゃんと役割があるのだ、と思える。そうして再び、書きかけの小説の前に座る。
・無事、イトカワから地球まで微粒子を持ち帰った小惑星探査機に、「はやぶさ」という名前をつけた人は偉いと思う。これがもし単なる小惑星探査機MUSES-C、というだけであったならば、あれほどの熱狂は起きなかったのではないだろうか。
帰還したはやぶさが、いよいよオーストラリアの砂漠に姿を見せた時、関係者の一人が空に向かって「お帰り、はやぶさ」と声を上げていたが、その口調には心からのいたわりがこもっていた。機械に向かって発せられた言葉とは、とても思えなかった。
鳥のハヤブサを実際に見たことはないが、だいたいの想像はつく。広大な草原の中から、微かな獲物の気配をキャッチする鋭い目。その一点に向かってゆくスピード。しくじってもあきらめない執念。余計な飾りを排した潔い姿。目印もないまま巣への道筋を見分ける賢明さ。こうしたものがすべて、探査機はやぶさと重なり合っている。カプセルだけを残し、燃え尽きた彼はまさに野生動物だ。自らの役目が終ったと悟った時、何の未練も残さずひっそりと死んでいったのだ。
もはやハヤブサとはやぶさは区別できない。私の中では、翼と階を持った一羽の勇敢な鳥が、宇宙の漆黒を旅している。最先端の科学技術を駆使したプロジェクトが、一つの名前を得たことで物語になる。宇宙の起源が解き明かされる喜びと、一つの物語を得る喜びは、等しく私を幸福にしてくれる。
・父は晩年、珈果が進み、私が娘であるのも分からなくなった。看護師さんに「この人誰か分かる?」と聞かれ、父は恥ずかしそうに「妹です」と答えた。
何の用事で二階へ上がったか忘れ、小指の爪は変形し、顔は白い粉をふいている娘なのだから、その父親が痴呆になってもしょうがないじゃないか。すべては順番どおりだ。自分のことより、常に子や孫の心配ばかりしてきた父が、ここでようやくその心配から解放されたのだ。
これは喜ばしいことなのだ。弟はたくさんいるけれど、妹は一人もいないから、一度妹というものを持ってみたかったのかもしれない。それならば、私が妹になろう。お安い御用だ。そう、自分に言い聞かせた。
・ところがどうだろう。ラブは平気だ。少しも気に病む様子などない。脚が弱くなっても、目が見えなくなっても、餌が腎臓病用になっても、相変わらず機嫌のいいままだ。
川上さんの句集の中から一句。
◇徹頭徹尾機嫌のいい大さくらさう
死ぬまで徹頭微尾、機嫌のよさを貫ける犬とは、やはり偉大な生き物である。だから私も大を見習い、できるだけ機嫌よく生活したいと願っている。同じく句集から。
◇はつきりしない人ね茄子投げるわよ
機嫌が悪くなる原因のほとんどは、人間関係にあると言っていいだろう。できれば、茄子を投げたくなるような、込み入った事情には陥りたくないと思う。しかし、一体どんな状況になれば、人様から茄子を投げられるのか、とても興味深くてたまらないのだけれど。
考えてみれば、犬は茄子を投げたくても、投げられない。生まれつき何かを投げるという行為を放棄している。この潔さにまた感服する。
◇もの食うて機嫌なほりぬ春の雲
そう、やはり犬を見習って、心がざわついたら何かお腹に入れるに限る。特別ご馳走である必要はない。焼き茄子か、マーボー茄子くらいで十分だろう。
さて、一つ問題なのは、機嫌よく振る舞おうとすると、なぜか口数が多くなることなのだ。例えば仕事の打ち合わせ中、私はできるだけその場の雰囲気を和やかにしようと、ニコニコ笑みを浮かべる。相手側にちょっとした不手際があっても責めたりしない。「いいですよ。大丈夫ですよ」と軽く受け流す。内心むっとしても、いや、ここで機嫌を悪くしては私の負けだ。
ラブを思い出せ、ラブを、と自分を励ます。
そうしているうち、だんだんと口数が多くなってくる。ここで沈黙が訪れたら、さっきのむっとした感情がよみがえってくるのでは、と恐れるように、どうでもいいことをべらべら喋ってしまう。必要以上に自分の機嫌のよさをアピールしようとする。
決定的な失言は、しばしばこういう時に発生する。家に帰り、「なぜあんなことを言ってしまったのか…•・・」と後悔し、頭を抱える。枕に顔を埋め、「馬鹿、馬鹿、馬鹿」と自分を叱る。
いつの間にか機嫌が悪くなっている。
それに引き換え犬はどうだろう。やはりここでも話は犬に戻ってくる。犬は何と賢いことに、言葉を持っていない。どんなに機嫌がよくても、喋らない。
◇ 車座にまじり犬の子枇杷の花
犬は機嫌よく車座にまじってくる。言葉など喋らなくても、ちゃんと仲間におさまって、皆
をなごませている。
私が目指すのは、機嫌よく黙っていることである。うすうす感づいてはいたが、理想の生き方を示してくれているのは、やはりラブだった。
昔、父が喉のポリープを手術した時、ベッドに「織黙療養中』という札がぶら下がっていたのを、今ふと思い出す。啓示に富んだ、なかなかいい言葉ではないか。犬の境地には到底たどり着けない未熟な私は、ただ単に機嫌よく振る舞う修行をするだけでは足りず、『織黙療養中」の札を首から下げておく必要があるのかもしれない。
・少年たちがただ野球をしているだけなのに、どうしてこんなに胸が熱くなるのだろう。今年の選抜高校野球大会ほど、その不思議について繰り返し考えたことはなかった。彼らがやっているのは、ルールにのっとった一つのスポーツに過ぎない。にもかかわらず、スポーツ以上の何かをもたらしてくれる。
・しばしば野球にはそういうことが起こる。なぜあの時、あんな簡単なゴロをエラーしてしまったのか。なぜあそこで、あの一球を見逃したのか。一生考え続けても答えの出せない問いを、スポーツは投げ掛けてくる。
だからこそ私たちも、まるで目の前の試合が一人の人間の生き方を映しているかのような思いで、一生懸命に試合を観る。
創志学園のキャプテン、野山慎介君は開会式で選手宣誓をした。立派な宣誓だった。台に上がって、帽子を取ってお辞儀をする、その仕草に心がこもっていた。太い眉毛がりりしかった。
難しい言葉は一つも使っていないのに、選手たち全員の思いが真っ直ぐに伝わってきた。名文とはつまり、技術でも何でもない、尊い志があるかないかによって決まるのだ、ということを教えられたような気がした。
野山君が書いてくれた色紙の言葉は『常に全力』。そう、君は全力だった。野球ができることへの感謝を、大人たちに向かって全力で表現してくれた。
創志学園は一回戦で惜しくも敗れ、校歌を歌うことはできなかったけれど、そんなことはどうでもいい。一つの勝利以上に大きなものを伝えてくれた。野山君をはじめ、今年の選抜大会を戦ったすべての選手たちに、ありがとうと言いたい。
・夜の十時過ぎ、住完街を一緒に歩き、公園の植え込みをクンクンする。家々に明かりは灯っているものの、誰ともすれ違わない。月だけが私たちを見守っている。
考えてみれば、以前にも夜中に散歩をしたことが何度かあった。それはたいてい非常事態が起こった時だった。主人が胆石の発作で病院に運び込まれた時、ソフトボールの試合で息子が怪我をした時、父が危篤になった時、そしてお葬式を出した時。
疲れきって家に帰ると、ラブがお利口に待っていた。ご飯ももらえず、散歩にも行けないままずっと放り出されていたのに、文句も言わず、待ちくたびれた様子も見せず、それどころか「何かあったんですか。大丈夫ですか」という目で私を見上げ、尻尾を振ってくれた。散歩に出ると、普段と違う暗闇に怖れることもなく、いつも以上に元気に歩いた。その時々の不安を私が打ち明けると、じっと耳を傾け、「ひとまず心配事は脇に置いて、とにかく散歩いたしましょう。散歩が一番です」とでも言うかのように、魅力的な匂いの隠れた次の茂みを目指してグイとリードを引っ張った。
「ラブ、鳴いてもいいんだよ」
もう既に颯爽と歩くことができず、後ろ足をよろよろ引きずっているラブに向かって私は言
った。
「撫でることで少しでもお返しできるのなら、いくらでも撫でてあげるよ」
耳の遠くなったラブは、私の声に気づきもしないまま、ただ月を見上げるばかりだった。
