Ryu "平和と愚かさ" 2026年3月20日

Ryu
Ryu
@dododokado
2026年3月20日
平和と愚かさ
「収容所の跡地に団地が建てられる。それはまさに、文字どおり大量死の大量生への接続である。クラクフでも、キエフでも、ハルビンでも、人々の生活は、わずか七〇年から八〇年まえに大量の死者たちが「処理」され埋められた、その土地のうえで営まれている。おそらくは日本でも似たことが言える。東京の市街地は空襲による虐殺の跡地のうえに広がり、広島と長崎の市街地は原爆による虐殺の跡地のうえに広がっている。だからぼくたちは、そのつながりを逆に辿ることで、大量生が生み出した記号的で薄っぺらな表現からでも、いわば逆算によって、大量死の過去あるいは地下へと降りていくことができるのではないか。」184 「ドイツのホロコーストにせよ、日本の731部隊にせよ、あるいは本論では触れることができなかったがソ連のスターリニズム下の政治的抑圧にせよ、20世紀前半の大量死の本質は、犠牲者を数に還元し、その生と死から名前と意味を奪うことにある。それゆえ、その記録においてはまずは名前(固有性)の回復が重要になる。これは本論の前提となる論理で、ぼくはここではむしろその論理を乗り越えるために議論を展開している。けれど、現実にはその論理の「手前」の事例もあるようだ。 […] ちなみにぼくは20年以上まえに、「存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)という著書でもボルタンスキーに触れたことがある(58ー61頁)。 ぼくはそこでは、ボルタンスキーの作品は、アウシュヴィッツのイメージを安易に神秘化して(当時の言葉でいえば「否定神学化」して)使っているから問題があると記している。 それは幽霊(死者)の固有性に鈍感だということであり、それが本論では数値化の暴力の問題として議論されている。なお、当時のぼくはそこでボルタンスキーとイリヤ・カバコフを同じタイプの作家として並べて議論してしまっているのだが、その点はいまは意見がちがっている。カバコフもまた、ボルタンスキーと同じように個人の私物を集めてインスタレーションをつくる作家だが、彼においては私物の固有性はけっして消えていない。」197 「罪証陳列館は、犠牲者に、七三一部隊が彼らから奪った意味や名前を与えなおすことを目的としていた。そして実際に与えなおしてもいた。それなのにその肝心の七三一部隊の暴力そのものが、たんなる「バカげた試み」で、意味も計画もない愚行だと認めねばならないとしたら、その回復はどうなってしまうだろう。それを認めてしまったら、結局のところマルタたちは無意味に死んだことになり、もういちど七三一部隊の暴力に、すなわち意味の制奪に服従してしまうことになるのではないか。 […] それはつぎのようにいいかえることもできる。加害の愚かさを認めることは、ときに加害の反復になる。」200-1 「加害者は害をなす。被害者は害をなされる。加害者は害の無意味を気にしない。そして忘れる。他方で被害者は害の無意味に耐えられない。だから害に意味を与えて記憶する。いま広く受け入れられているのは、そのような論理である。 それはそれでよい。しかしそこで忘れてならないのは、加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないということである。加害者は害を記憶しない。他方で被害者は害を記憶するが、かわりに意味を与える。ではそのとき、加害の無意味さの記憶は、いいかえれば悪の愚かさの記憶は、いったいどこにいってしまうのだろうか。」204 「ぼくの仕事を継続的に追っている読者のため、短く付け加えておきたい。ぼくはその四半世紀まえの評論では、「数値化の無意味そのものにとどまる思考」を「確率的」思考と呼んでいる。5年後に出版した『存在論的、郵便的」では、同じ問題を「誤配」という言葉を使って考えている。本論には「確率」も「誤配」も出てこないが、やはり同じ問題を扱っている。最後まで読んでいただければわかるが、ぼくが本論で試みているのは、要は、いままで「確率」「誤配」という言葉で名指していたものをコミュニケーションや時間の非対称性のなかで捉え返そうという試みである。 加害者(情報の発者)はつねに手紙を誤配している。けれども加害者は手紙の送付自体を忘れるし、被害者(情報の受倍者)は手紙を受け取った以上は自分が目的地だと信じる。それゆえ誤配の事実が記憶されることはない。それが問題だというのが、この四半世紀ぼくが一貫して考え続けてきたことである。それはまた『観光客の哲学増補版」(ゲンロン、2023年)の鍵概念である「家族」「親子」とも関係している。親(加害者)はつねに誤配している。子はつくってもいいし、つくらなくてもいい。つくらないつもりができてしまうこともある。けれども子(被害者)からすれば、自分が生まれた以上は、生まれるのは必然だったのだと感じる。ここでもまた誤配の事実は消える。では誤配の事実を忘れないためにはどうしたらよいのか?それが本論の主題だが、それはいいかえれば、被害者=子として加害者=親を告発するのではない、確率と誤配を基礎にしたべつのタイプの加害者=親側の責任論を構想するという試みでもある。」209 「大量死に自然主義文学で抵抗するのではなく、大量死と大量生を探偵小説によってつなく。笠井はそのような読解の可能性を提案している。それは本論がここまで展開してきた言葉でいいかえれば、大量死の暴力に対して意味の回復(自然主義文学)で抵抗するのではなく、その暴力が生み出した意味失(探偵小説)こそを記憶し、そのうえで大量死と大量生を連続的に考える、そのような可能性の提案を意味しているのではないか。」216 「村上はそこで戦争の記憶をけっして直接には描いていない。過去と現在、戦前と戦後はむろんつながっている。「ねじまき鳥クロニクル」の主題はたしかにその連続性にある。作中ではノボルがその連続性を象徴している。彼の残酷さや傲慢さは、ノモンハンと新京の凄惨な暴力を連想させる。 にもかかわらず、その連続性を、事実に基づいて、論理的な因果として、すなわち意味のある物語として再構成しようとすると、それは突然にむずかしくなる。それこそが主人公が直面した困難であり、村上がこの小説で主題的に描いている状況である。だから村上は彼を井戸へ送り込む。いいかえれば、夢と無意識の論理によって、つまりは文学の力によって、その連続性をべつのかたちで言語化しようと試みる。ぼくの考えでは、『ねじまき鳥クロニクル』のほんとうの重要性はむしろこちらにある。つまりは、この小説は、加害側が──加害者の文化の継承者と否応なくみなされてしまう位置にいる作家が──はじめて過去の悪へ遡ったから重要なのではない。そうではなく、加害側が過去の悪へと遡るのがいかにむずかしいか、そしてそのむずかしさのなかで文学になにができるのか、それを主題とした作品だからこそ、重要なのである。」221-2 「おそらくは悪については、加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるのだ。加害者、あるいはより広く加害の文化の継承者は、井戸に潜ることではじめて、加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けることができるのではないか。それが、ぼくが本論で明らかにしようとしたことだ。 忘却と追悼を対立させ、悪を物語化することで満足するのではなく、悪の浅薄さと卑小さも記憶すること。大量死と「存在の意味」を対立させ、哲学し文学することで安心するのではなく、大量生の意味喪失にも身を晒すこと。収容所と博物館を対立させ、博物館が悪の記憶のすべてを担うと考えるのではなく、そのまわりに広がる団地にも、とくにその地下にも気を配ること。」231 「元軍医の証言が教えてくれるのは、そういう驚くべき軽薄さであり、無責任さであり、つまりは「愚かさ」である。その軽さ=愚かさは、加害者の中動態的なかまえによって、すなわち、加害に加担しつつも、その加担を能動的に選び取ったという自覚がない、自発性にも強制にも分けられない態度によって生み出されている。」273 「ここには大きな逆説がある。破局はつねに、それが起こるまえは、その発生可能性が無視できるほど小さなものに見えるものとして存在している。だから、その現実性は、「計算」を始めた瞬間に消失し、その回避の可能性もあわせて消失してしまう。したがって、ぼくたちは逆に、まずは破局は避けられないとじる必要がある。そのように信じてはじめて、「計算」の罠に陥ることなく、破局回避のため真剣な努力を始めることができるというのである。」296 「個人ではなく群れの記憶。土地の記憶。大量死があっても、それでも生は大量生として続いていくという、その現実そのものにまれた記憶。それこそがぼくが団地の記憶と呼ぼうとしているものだ。」318 「大江が「治療塔惑星』で平和記念公園を団地に変えてしまったことには、明らかに政治的なメッセージが込められている。大江は原水爆禁止世界大会を信じていない。記念碑も記念館も記念式典もじていない。被災地に生きる人々しかじていない。記憶は、ひとがそこに生きることで伝わるものだとしか信じていないのだ。」330
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