平和と愚かさ
205件の記録
kyoji@kyoji2026年3月26日読んでる@ 自宅第二部 ウクライナについて 序盤を読んで バビ・ヤールなど歴史的な惨劇の地が今や何事もなかったかのように平和に過ごしている。 これは国、地域が意図的にしているのか、つまり目を逸らしているのかどうかが気になる。 ナチスのホロコーストについて学び直すきっかけになった。
Ryu@dododokado2026年3月20日読んでる「収容所の跡地に団地が建てられる。それはまさに、文字どおり大量死の大量生への接続である。クラクフでも、キエフでも、ハルビンでも、人々の生活は、わずか七〇年から八〇年まえに大量の死者たちが「処理」され埋められた、その土地のうえで営まれている。おそらくは日本でも似たことが言える。東京の市街地は空襲による虐殺の跡地のうえに広がり、広島と長崎の市街地は原爆による虐殺の跡地のうえに広がっている。だからぼくたちは、そのつながりを逆に辿ることで、大量生が生み出した記号的で薄っぺらな表現からでも、いわば逆算によって、大量死の過去あるいは地下へと降りていくことができるのではないか。」184 「ドイツのホロコーストにせよ、日本の731部隊にせよ、あるいは本論では触れることができなかったがソ連のスターリニズム下の政治的抑圧にせよ、20世紀前半の大量死の本質は、犠牲者を数に還元し、その生と死から名前と意味を奪うことにある。それゆえ、その記録においてはまずは名前(固有性)の回復が重要になる。これは本論の前提となる論理で、ぼくはここではむしろその論理を乗り越えるために議論を展開している。けれど、現実にはその論理の「手前」の事例もあるようだ。 […] ちなみにぼくは20年以上まえに、「存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)という著書でもボルタンスキーに触れたことがある(58ー61頁)。 ぼくはそこでは、ボルタンスキーの作品は、アウシュヴィッツのイメージを安易に神秘化して(当時の言葉でいえば「否定神学化」して)使っているから問題があると記している。 それは幽霊(死者)の固有性に鈍感だということであり、それが本論では数値化の暴力の問題として議論されている。なお、当時のぼくはそこでボルタンスキーとイリヤ・カバコフを同じタイプの作家として並べて議論してしまっているのだが、その点はいまは意見がちがっている。カバコフもまた、ボルタンスキーと同じように個人の私物を集めてインスタレーションをつくる作家だが、彼においては私物の固有性はけっして消えていない。」197 「罪証陳列館は、犠牲者に、七三一部隊が彼らから奪った意味や名前を与えなおすことを目的としていた。そして実際に与えなおしてもいた。それなのにその肝心の七三一部隊の暴力そのものが、たんなる「バカげた試み」で、意味も計画もない愚行だと認めねばならないとしたら、その回復はどうなってしまうだろう。それを認めてしまったら、結局のところマルタたちは無意味に死んだことになり、もういちど七三一部隊の暴力に、すなわち意味の制奪に服従してしまうことになるのではないか。 […] それはつぎのようにいいかえることもできる。加害の愚かさを認めることは、ときに加害の反復になる。」200-1 「加害者は害をなす。被害者は害をなされる。加害者は害の無意味を気にしない。そして忘れる。他方で被害者は害の無意味に耐えられない。だから害に意味を与えて記憶する。いま広く受け入れられているのは、そのような論理である。 それはそれでよい。しかしそこで忘れてならないのは、加害者はそもそも害を記憶しないし、したがらないということである。加害者は害を記憶しない。他方で被害者は害を記憶するが、かわりに意味を与える。ではそのとき、加害の無意味さの記憶は、いいかえれば悪の愚かさの記憶は、いったいどこにいってしまうのだろうか。」204 「ぼくの仕事を継続的に追っている読者のため、短く付け加えておきたい。ぼくはその四半世紀まえの評論では、「数値化の無意味そのものにとどまる思考」を「確率的」思考と呼んでいる。5年後に出版した『存在論的、郵便的」では、同じ問題を「誤配」という言葉を使って考えている。本論には「確率」も「誤配」も出てこないが、やはり同じ問題を扱っている。最後まで読んでいただければわかるが、ぼくが本論で試みているのは、要は、いままで「確率」「誤配」という言葉で名指していたものをコミュニケーションや時間の非対称性のなかで捉え返そうという試みである。 加害者(情報の発者)はつねに手紙を誤配している。けれども加害者は手紙の送付自体を忘れるし、被害者(情報の受倍者)は手紙を受け取った以上は自分が目的地だと信じる。それゆえ誤配の事実が記憶されることはない。それが問題だというのが、この四半世紀ぼくが一貫して考え続けてきたことである。それはまた『観光客の哲学増補版」(ゲンロン、2023年)の鍵概念である「家族」「親子」とも関係している。親(加害者)はつねに誤配している。子はつくってもいいし、つくらなくてもいい。つくらないつもりができてしまうこともある。けれども子(被害者)からすれば、自分が生まれた以上は、生まれるのは必然だったのだと感じる。ここでもまた誤配の事実は消える。では誤配の事実を忘れないためにはどうしたらよいのか?それが本論の主題だが、それはいいかえれば、被害者=子として加害者=親を告発するのではない、確率と誤配を基礎にしたべつのタイプの加害者=親側の責任論を構想するという試みでもある。」209 「大量死に自然主義文学で抵抗するのではなく、大量死と大量生を探偵小説によってつなく。笠井はそのような読解の可能性を提案している。それは本論がここまで展開してきた言葉でいいかえれば、大量死の暴力に対して意味の回復(自然主義文学)で抵抗するのではなく、その暴力が生み出した意味失(探偵小説)こそを記憶し、そのうえで大量死と大量生を連続的に考える、そのような可能性の提案を意味しているのではないか。」216 「村上はそこで戦争の記憶をけっして直接には描いていない。過去と現在、戦前と戦後はむろんつながっている。「ねじまき鳥クロニクル」の主題はたしかにその連続性にある。作中ではノボルがその連続性を象徴している。彼の残酷さや傲慢さは、ノモンハンと新京の凄惨な暴力を連想させる。 にもかかわらず、その連続性を、事実に基づいて、論理的な因果として、すなわち意味のある物語として再構成しようとすると、それは突然にむずかしくなる。それこそが主人公が直面した困難であり、村上がこの小説で主題的に描いている状況である。だから村上は彼を井戸へ送り込む。いいかえれば、夢と無意識の論理によって、つまりは文学の力によって、その連続性をべつのかたちで言語化しようと試みる。ぼくの考えでは、『ねじまき鳥クロニクル』のほんとうの重要性はむしろこちらにある。つまりは、この小説は、加害側が──加害者の文化の継承者と否応なくみなされてしまう位置にいる作家が──はじめて過去の悪へ遡ったから重要なのではない。そうではなく、加害側が過去の悪へと遡るのがいかにむずかしいか、そしてそのむずかしさのなかで文学になにができるのか、それを主題とした作品だからこそ、重要なのである。」221-2 「おそらくは悪については、加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるのだ。加害者、あるいはより広く加害の文化の継承者は、井戸に潜ることではじめて、加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けることができるのではないか。それが、ぼくが本論で明らかにしようとしたことだ。 忘却と追悼を対立させ、悪を物語化することで満足するのではなく、悪の浅薄さと卑小さも記憶すること。大量死と「存在の意味」を対立させ、哲学し文学することで安心するのではなく、大量生の意味喪失にも身を晒すこと。収容所と博物館を対立させ、博物館が悪の記憶のすべてを担うと考えるのではなく、そのまわりに広がる団地にも、とくにその地下にも気を配ること。」231 「元軍医の証言が教えてくれるのは、そういう驚くべき軽薄さであり、無責任さであり、つまりは「愚かさ」である。その軽さ=愚かさは、加害者の中動態的なかまえによって、すなわち、加害に加担しつつも、その加担を能動的に選び取ったという自覚がない、自発性にも強制にも分けられない態度によって生み出されている。」273 「ここには大きな逆説がある。破局はつねに、それが起こるまえは、その発生可能性が無視できるほど小さなものに見えるものとして存在している。だから、その現実性は、「計算」を始めた瞬間に消失し、その回避の可能性もあわせて消失してしまう。したがって、ぼくたちは逆に、まずは破局は避けられないとじる必要がある。そのように信じてはじめて、「計算」の罠に陥ることなく、破局回避のため真剣な努力を始めることができるというのである。」296 「個人ではなく群れの記憶。土地の記憶。大量死があっても、それでも生は大量生として続いていくという、その現実そのものにまれた記憶。それこそがぼくが団地の記憶と呼ぼうとしているものだ。」318 「大江が「治療塔惑星』で平和記念公園を団地に変えてしまったことには、明らかに政治的なメッセージが込められている。大江は原水爆禁止世界大会を信じていない。記念碑も記念館も記念式典もじていない。被災地に生きる人々しかじていない。記憶は、ひとがそこに生きることで伝わるものだとしか信じていないのだ。」330

高橋典幸@takahashinoriyuki2026年3月20日買った@ ジュンク堂書店 池袋本店著者の 《 「考えないこと」からの平和論 》 に触れてみてみたくなりまして。その議論と論考を、執筆された文章で。 ジュンク堂書店 池袋本店 にて。
- ゆるふ@yuruF2026年3月20日読み終わった第1部の「考えない愚かさ」と第2部での「悪の愚かさ」は、似て非なるものだが、わたしたちは何を記憶し、何を忘却すべきかという問いでつながっている。東浩紀のいう平和とは、敵か味方か、加害者側か被害者側かの峻別を迫られない、あるいはそのような思考から一時的に解放されている状態を指す。出来事をなるべく単純化せず、複雑なまま捉えることを目指している。最終章にある通り、わたしたちは時にリゾート客として考えないことを享受し、時に裏方として考えることに徹する。世界と関わるには、オンとオフのどちらも大事だというメッセージ。

euy@euy2026年3月15日ちょっと開いた「中動態の世界」を読み終わったので、「悪の愚かさについて2」の復習。 ここで言われてる中動態ってのは、主体の行為が自分に返ってくる中動態のことではなくて、抽象的に、能動ー受動の関係にないものくらいの意味合いで使われてるのかな。 「愚かな悪は中動態的に加害に加担する」 「ひとは中動態を中動態のままでは記憶できない」 「その残酷さを、法と線形的な時間の外部でいかに記憶するか」
中村@boldmove332026年2月22日読み終わった筆者は YouTube やウェブ記事において本書の主題を「平和とは考えないことである」として示していたが、じっさいには(あたりまえだが)複数のテーマや論点が重なる著作になっていた。東浩紀の著作を読んだのはこれが初めてだったが、刺激的でおもしろかった。「加害者による数の暴力=忘却と被害側による意味の再付与=記憶」(p. 206)の共謀が加害の愚かさを後景化させること、犠牲者意識ナショナリズムをはじめとする「被害の物語」はかならず「敵」の存在を必要としてしまうこと、村上春樹論もおもしろかった。人文学を経験科学(=自然科学と社会科学)と対置させ、その意義をテーマパークの運営業務と顧客対応になぞらえて、幻想の訂正をすることと結論づけているのも圧巻だった。 >平和への志向と反戦運動は似ているようで本質的には異なる。平和は考えないことで定義されるが、戦時には考えないことは端的に意味を持たなくなる。戦争について考えないからといって、戦争が止まるわけではないからだ。むしろ戦争を止めるためには、平和ボケとはまったく逆に、現実の政治に深く入り込み、戦争を推進する勢力と厳しく対峙する態度が必要になってくる。その対立の姿勢こそが反戦と呼ばれるものである。(p. 27) >かつてナショナリズムといえば英雄や勝利の物語(加害の物語)が中核になった。しかしいまでは、自分たちは弱者で、犠牲者で、だから正義なのだという訴え(被害の物語)のほうが中核になってきている。博物館のテーマパーク化は、そんな国家意識の変容のわかりやすい表れでもある。(p. 87) >平和は詩でつくられる。詩は愚かだ。暴力的でもある。しかしその愚かさを失ってしまえば、ぼくたちは結局のところ永遠の戦いに閉じ込められるだけだろう。心の傷は、賢さではけっして癒されないからである。(p. 159) >けれども、そこでほんとうに記憶すべきものは、まさに加害者たちが、犠牲者を数に変え、固有性を奪い、交換可能な実験材料として、だれをいつ殺してもいいし殺さなくてもいい、そのような徹底した無関心に達していたことのおそろしさにあったはずなのである。その無関心こそが、彼らを悪をなすことを可能にしたのだから。けれどもそのおそろしさは、被害者が害を物語化し、悪に意味を与えた瞬間に消えてしまう。つまり、この問題においては、数の暴力に意味で抵抗するという、前述の構図そのものが機能しないのだ。加害者による数の暴力=忘却と被害側による意味の再付与=記憶は、むしろ共謀して、数による加害という無意味の意味を見えなくしてしまうのだから。(p. 205–206) >けれども、おそらくは悪については、加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるのだ。加害者、あるいはより広く加害の文化の継承者は、井戸に潜ることではじめて、加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けることができるのではないか。それが、僕が本論で明らかにしようとしてきたことだ。(p. 231) >けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうとも思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すら繰り返すかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。いかなるイノベーションが生まれたとしても、人類が人類であるかぎり、その条件は変わることがない。(p. 325) >リゾートを享受する客のほとんどは、ほかのどこかで他者に奉仕し、対価として金銭を獲得した人々だ。つまりフルタイムで動物なわけではない。ここに現代社会の重要な特徴がある。ひとはときに人間になり、ときに動物になる。同じ人間があるときは裏方となり、あるときは客となる。それは裏返せば、現代社会では搾取するものと搾取されるものを実体的に区別できないということを意味している。ある局面で搾取されているひとも、ほかの局面では搾取する側にまわっているかもしれない。階級が分かれているわけではない。いま左派が力を失っているのは、そのような変化に対応できていないからだ。(p. 461) >けれども消費者的—生産者的二重体の時代においてはそうはいかない。そもそもテーマパークが幻想であることはみな知っている。裏方の苦労もみな知っている。そのうえでみな幻想を楽しみにして生きている。そんな状況において、この世界は嘘だという左派や陰謀論者の言葉はとても単純で幼稚に響く。なるほどテーマパークは嘘だろう。世界は幻想だろう。しかし、そもそも人間に、世界を幻想で覆う以外にいったいなにができるというのか。それこそがいま多くの人が感じていることであり、そして消費者的—生産者的二重体の時代のもっとも本質的な問いだ。(p .475–476)
doji@doji_asgp2026年2月12日読み終わった哲学にはこんなことができるんだと、わりと読み続けてきた著者の作品だからこそ、積み上げられていったものの大きさと伏線が回収されていくような話運びに感動してしまう。それは東さんの本では毎度のことなのだけれど。正しくあろうと考えることの先に苦しみと戦争があるのであれば、別の考え方を考えなくてはならない。ここしばらく胸の中心にあった苦しみを言い当てられているような気がした。「訂正可能性の哲学」にもあったけれど、ポリティカリーコレクトネスではなく、コレクティングとしてのあり方を考えいかないと、ひたすらに敵をつくり続けることになってしまう。その結果が今回の衆院選だと思うと、背筋が凍ってしまった。「戦争」というもの自体をはじめて知った子どもの頃に感覚が蘇ってしまった。
euy@euy2026年2月8日読み終わったひととおり通して読み終わった。 テーマは重いけど、紀行文風で語り口はやさしい。ちょっと複雑そうな、新しい視座が示されてるけど、読みやすくてさらっと読める。不思議な本だった。 ところどころ、過去に読んだものだったり、動画で聞いた話だったり、自分もイベントに参加して聞いた話だったり、本の中で触れられてるコンテンツに自分も触れてみたり、今回初めて読む部分もあったり、いろんなものが混ざりつつ、一冊の本として最初から最後まで読み通すという、自分の読書体験としても不思議な体験をした一冊だった。 いろいろとおもしろい視点があったけど、自分の中で一番印象に残ったのは、考えないことや忘れることに価値を認めるということ。 これまでの人生ではちゃんと考えること、何でも話し合うことが尊いと教育されることが多かったけど、考えないこと、忘れること、話し合わずにフタをすることでうまくいくことってあるよなあと大人になってから実感する。 まだ十分に自分の中で消化しきれてない部分もあるように思うし、注をけっこう読み飛ばしたけど、次の日本論が出るまでのあいだに、読み直してもうちょっと理解を深めておきたいと思う。

euy@euy2026年2月1日(とりあえずチェルノブイリの感想) 本の中で取り上げられていたドラマ「チェルノブイリ」を見てみたけど、すごいドラマだった。 被曝の描写がとにかく凄惨で、官僚組織による問題のある事故対応とかもソ連に限らずいかにも人間社会にありがちな感じで身につまされる。 まじで人間って愚かだなって感じで、こーゆーのを背景に描かれてたのかと理解が深まった。 他方で、ドラマの中では所長のこととか一方的な悪として描かれてたけど、この本で読む感じではもっと事態は複雑な感じで(そりゃそうか、人間がそんなに単純に善と悪、被害者と加害者に分かれるわけないか。)、そういう意味でもいろんな形での記憶の継承が必要なのかなとも思った。


芦戸@acidgoodluck262026年1月31日読み終わった期待以上に素晴らしかった。東浩紀という思想家・批評家には毀誉褒貶もあるだろうが、私には誠実な作家の一人だ。 哲学書的には、アカデミズムの手続きを意識的に踏み越えるような展開とアクロバットを抱えつつ、紀行文としての性質がそれらを文学的に貫いて哲学的強度も保ち、反対に紀行文としては抽象的な議論が多いが、エッセイとしての文学性が独特の感動を呼び起こし、エッセイほど素朴ではないのに、哲学的議論を著者ひいては読者に引きつけることで素朴にも読めてしまう。哲学、紀行文、そしてエッセイを横断する「平和」についての本作は、まさに本文中に記されるような思考の横断を実践する好著だと思う。 氏の著作では群を抜いて好きかもしれない。



ぜち@zechl232026年1月30日読んでる少しずつ読む。本とは関係ないかもしれないけど、自分は自分で問いを書いたメモをポケットにいれて、本を読む。郵便的とか誤配という言葉に安心しながら、時々ポケットのメモを取り出して、自分はどうしてその問いなのか考えたりしながら。たとえば「親は子どもを子ども以外のなにかとしてはあまり見ないものなのか」とか。










- たかせ@micks1032026年1月29日読み終わった東さんはやっぱりすごいなあ。すごい覚悟のようなものを感じるんだけど、筆致は落ち着いていて、いろんなところに気を配りながら書いている。とても油がのった傑作だと思うが、これから少しずつ枯れていく(いい意味でも悪い意味でも)のかな。



arinko@arinko2026年1月28日平和は考えないことによって生まれ、考えたときに崩壊する。悪は、中動態的な愚かさによって生じる。さらに、東は人文学と自然科学の関係を捉えなおすため、現代人を消費者的ー生産者的二重体あるいは客的ー裏方的二重体として形容している。つまり、誰もが考える時間と考えない時間を行き来している。ハイデガーは人間を世界への配慮で定義したが、複雑で広大な現代世界全体を配慮する力は人間にはない。だから、ものを考えないことは悪ではない。

オケタニ@oketani2026年1月25日読んでる・平和はは戦争が欠けていること、かもしれない。戦争について考えないことが許される状態。 ・平和は考えないことの広がり、それは愚かさとも表裏一体 ・その仮説から、サラエヴォを訪ねたときのことが書かれていくのだけど、 ・語りが太田光っぽい。 「大衆とは何か」を話すときに一つの映画のあらすじを延々話して、そこに自分は大衆性を感じた。という回があったように、「平和とは何か」を書く上で自身の旅行記的に語っていく予感がある。 でもそういうものよな、勉強の哲学にあった自己破壊的なことって。
yoshi@yoshi2026年1月24日読み終わった1ヶ月かけて読了。読んでよかった。うまく消化はまだできていない。たぶん、しっかり消化されることなんてないんだろう。十数年前にイスラエル滞在中に起こったガザ空爆、あのときの記憶がよみがえり、それを片隅に浮かべながらの読書であった。

Toru4@toreru42026年1月24日読み終わった年末から少しずつ読み進めて読了。考えることと考えないこと、戦争と平和、加害と被害、客と裏方、をぐるぐると行き来して、我々はどうあるべきなんだろうかと考えさせられる読書体験だった。仕事や育児に引き付けて考えても納得感のある内容。定期的に読み返したい。

あずき(小豆書房)@azukishobo2026年1月21日読んでる紹介分厚い本ですが東浩紀さんの本の中ではかなり読みやすいのでは。動画で喋ってる姿は知ってるけど本は読んだことないなって方は読んでみられるといいと思います。文章で書くこと、文章で読むことの良さがよく分かります。500ページほどある贅沢本!論考でありエッセイでもある。


neko@honyomuneko2026年1月18日読み終わった旅を結論のための材料集めにするのではなく、体験に基づいた違和感から問いを立て思索を深めていくプロセスに誠実さを感じた。感想を簡潔に伝えたり要約するのがとても難しい本だけど、物事を単純化させず複雑さをそのまま受け入れようね、ということなのかもしれない。

yoshi@yoshi2026年1月17日読んでるそろそろ3分の2くらいまできた。中動態。破局は起こると信じること。逆に、起こってしまった破局を「破局が起こらなかった」ものとして記憶すること。なかなか難しいが、するすると読める。アイヒマンとカントの話も印象的。
みなと@minato_nozomu2026年1月17日読み終わった"だからぼくは、ひとを賢くする言説は、つねにひとの愚かさを伝える言説によって補完され続けなければならないと考える。博物館が語る必然の歴史の傍らで、偶然と中動態に開かれたもうひとつの物語が語られ続けなければならないと考える。"



- 高橋@takaryo2026年1月15日読み終わった抽象的な議論に頭を引き摺られていると時折、そして唐突に、平和への祈りのような言葉があらわれる。胸を衝かれる。 考えることで逆に無防備なった考えない領域が、敏感に、その祈りに触れる。その体験は痙攣に似ている。 文体が内容となり、それらが螺旋状に上昇し、最後には、何かのヒントのようなものが、目の前に転がっている気になった シーシュポスの神話の不条理な人間との対比で、平和なことは、同時に愚かでもありうるということとの緊張関係にどれほど自覚的であるべきなのか、考えたい、なぜなら、暇だから





みなと@minato_nozomu2026年1月13日読み始めた"…そんな彼らの足もとが、まさにその国家主義や民族主義に基づき、ナチスと連合国が百万人単位の人々を犠牲にしてつくりあげた人工的なヨーロッパだったのだとしたら、その「正しさ」の意味も変わってくる。彼らは隔離の平和の果実を享受しながら、共生の平和を訴えていた。そこには明確な矛盾がある。"

yoshi@yoshi2026年1月11日読んでるこの本を読みながら、ふと13年ほど前の2012年11月頃、イスラエルに滞在していたときのことを思い出す。当時は1年間のバックパッカー旅中で、農業を勉強するために9月から入国して2ヶ月が経過したところだった。その頃、ガザ空爆が起こった。 ぼくはテルアビブの友人宅に避難していた。ガザからもミサイルは飛んできていた。けど、アイアンドームでそれらは迎撃されていた。ミサイルが飛んでくると警報が鳴り、アパートの廊下にでて壁を背にしてじっっとする姿勢をとった。こういう風にすることをテレビのCMなどでも放送されていた。 日本の住宅は耐震が当たり前であるように、イスラエルの家には核シェルターがあったりする。公園にもあったりした。 また、イスラエルに入国した直後は若い兵士が何人も銃をもってぞろぞろと歩いている風景にびびったものだったが、1ヶ月、2ヶ月と経過すると慣れ、「守られている」ような感覚に変わったことも思い出した。 本の内容とは関係がないが、読みながらふと思い出したので記録しておく。
いぬファン@maetakalp2026年1月4日読んでる哲学、批評、紀行を混ぜたような、読みやすくそれでいてしっかりと哲学的思索の足掛かりとなる文章群。抜群の読み味は、長年の仕事で磨き抜かれたものだと感じる。

勝村巌@katsumura2026年1月4日読み終わったゲンロンのサイン回配信でサイン本を購入。2025年の年末から2026年の年始にかけて読んだ。2026年の1冊目としては年初から濃厚な読書体験ができた。 東浩紀は数年前から突発配信などの長時間の1人語りをかなり聴いてきた。会社経営者という立場を鑑みるとかなり正直な本当のことを語る、好きな語り手の1人だが、著作も大変によく、古いものから最近のものまである程度は読んでいるが、どれも素晴らしい。 この本は戦争が止まず、SNSでは分断が止まない、この世界で平和とは一体、何なのか、どのような状態を平和と考えるとよいのか、ということを、東浩紀が実際に訪れた世界中の都市への紀行文と哲学的思索がつづれおりに重なっている、という構成になっている。 ほぼ500ページという大著で著者も哲学者ということで難解な言葉の羅列かと思いきや、そんなことはなく、難しい概念を紀行文と合わせて、とても分かりやすく平易な文章で書いてあり、非常に読み口が軽いのも特徴。大切なことが書かれているので広い読者に届いてほしいと感じる。 さて、言いたいことを言いすぎて友と敵を、明確に分断しがちなこんなポイズンな世の中で東浩紀が訴えるのは、平和というのは、政治について考えないでよい範囲がより広く担保されている状況のこと、なのではないか、ということである。 例えばパンダを見て、これは中国による外交政策の一環なのだ、と感じたり、スタバを楽しんでいる人を見てあんたはイスラエル支持者よね、とレッテルを貼ったりする行為からは分断こそ生まれるが平和からは遠ざかる、という考え方である。 政治的に考えない、というのは愚かさに通じる、という言説があるが、哲学的に考えないことを考える、ということに挑戦していて、そこは大変にエキサイティングに感じる。 紀行文としてはサラエヴォ、ウクライナ、チェルノブイリ、中国、広島、どこかのリゾート地などを訪問して、そこの戦争や人災の負の記録と向き合って、その表象を探り、記録と記憶について思索を深めている。 逍遥、というのとは少し違うが、移動して見知らぬ土地へ赴き、そこで気づいたことをきっかけに論を展開しており、これはわかりやすい。 負の記録としては現地の博物館などに訪れて虐殺や戦争などについての表現の仕方をとらえている。 記録と記憶、というのは起きた事実をどう捉えるか、という点で重要な観点となる。 記録的な側面は、その記録は事実だが例えば博物館などに展示される場合、その表現は博物館側の意図により大幅な訂正可能性を持つ。例えばコップの中に水が半分あるとして、これをあと半分しかない、と表現するか、まだ半分も残っている、と表現するかによって、観衆の捉え方はコントロールできる。文脈を持たない人たちにとってはそこに批評性を持ち込むのはなかなか難しい。 また、博物館の展示はコンセプトによって訂正可能性があり、その表現は流動的となる。 記憶についていうと、人間の寿命は短いため、当事者というのは世代を同じくするため同じような時期にパタっといなくなってしまう。日本においても戦時中の記憶を保っている人々はほぼいなくなってしまっている。この流動性は人間という種の限界と言ってもいいのかもしれない。 つまり、世界中に残る負の出来事を次世代に残していくということは常に訂正可能な事象として曖昧な形で継承されていく、というわけだ。 それに対して、複雑な記録と記憶をどのように繋いでいくか、というところに東浩紀が注目したのが、文学における方法とインスタレーション的な展示による方法となる。 文学については村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と大江健三郎の『治療塔』『治療塔惑星』の2篇を例に挙げて語っていてとても興味深かった。 『ねじまき鳥クロニクル』は学生の頃から大変好きな作品で繰り返し読んできた。人間が抱えている暴力についての物語と捉えているのだが、物語の中に唐突に第二次大戦中の1939年のノモンハン事件に関連する特殊作戦の展開が描かている。 現代を生きる主人公は様々な偶然に導かれて、その記憶の蓋を開けて、深い井戸に潜ることにその記憶と直結していく、という流れがある。 これは失われた記憶というものをキーに、ある種の戦争加害と我々は無関係ではない、ということを小説的な手法で表現している構成だ。 マジックリアリズム的にも読めるこの構成をかなりシリアスに忘却への具体的アプローチにしているのが、この小説のすごいところなのだろう。またその視点を忘れずに読み込んでみよう。 『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公はいろいろと考えて行動を起こすが基本的には意図しないところで意図が達成されたり、徒手空拳に待っていると向こうから答えがやってくるというような状況設定が多い。現実に翻弄される、ということと忘却された事実に導かれている、というところが裏で結びついているようで、そこを読み解くとまた見え方が変わってくる気がする。 村上春樹では2000年刊行の『神の子どもたちはみな踊る』の中に「かえるくん、東京を救う」という短編があって、これは村上春樹さんによると、なぜか大変に人気のある短編なのだそうですが、ここでも近いテーマが別のアプローチで描かれている気がしている。 東京の地下にいる巨大なミミズである「なめくじら」が大地震を起こそうとしている。それをかえるくんと主人公の片桐が片桐の夢の中で協力して退けるという話なのですが、夢というのは記憶であって事実ではない。しかし、それは現実に対しても確かに効力を持ち得る、というようなテーマというか、こちらは大変に前向きで勇気や責任について直接的に書いている、気持ちの良い話(ラストは少しダークですが)なので、興味のある方はぜひご一読あれ。 また大江健三郎の作品でも広島や原水爆をテーマにしたSFが近いような記録や記憶を元にそういった負の遺産をどのように人間が消化(昇華?)していくのかを扱った作品がある。 大江健三郎と村上春樹の村上初期の作品に対する大江健三郎の拒否反応を知っていると、その後の村上春樹の小説家としてのキャリアを見てきた自分としてはこの2人がこのようにある意味、並列に扱われているのを見るのは嬉しいことだ。 AIなどの発展により、逆に人間の持つ小説や文学などの人文学的な価値は高まるだろうと東浩紀は書いているが、これらの小説に触れてきた自分としては、それは確かにそうだ、その通りだ、と思う。 また、記録や記憶にとって博物館の展示、特にノンバーバルなインスタレーション的な展示がものごとの持つ複雑な多様性を表すために効果的だ、という指摘があり、そこは大変に共感した。 例えばワシントンにある国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館では、アメリカの憲法に人間の平等の一文を書いた3代大統領のジェファーソンの像があり、彼は独立宣言の父などと称されつつも、自身は600人にものぼる大量の奴隷所有者で、あまつさえ当時、自身の奴隷だった女性との間に複数の子を設け、その子供も奴隷として扱ったということが歴史的事実として広く認識されているそうだ。 かなり矛盾を孕んだ人物像だが、それをこの歴史文化博物館ではそのジェファーソンの背後に600個のレンガの壁をたて、そこに奴隷の名を記すことで表現しているのだという。 言葉でジェファーソンの矛盾を説明すると恣意的になる。そこで、本人の像とレンガの壁、そして記名による個人の顕現により、様々な両義性を表しているのだろう。 戦争についての美術としてはゲルハルトリヒターの『ビルケナウ』やミハ・ウルマンの『空の図書館』など、優れたものがあるが、単に激烈な表現をするだけでなく、ノンバーバルなだけに形や色で表現することの可能性について言及されているのは様々な博物館や美術館を歩いた東浩紀ならではの視点と感じた。 またウクライナの現代美術家ジャンナ・カディロワについての言及があった。ジャンナは愛国に基づき、自身の作品の売り上げをウクライナに寄付して戦争協力している、ということが展示内で明言されており、そこについて東浩紀は否定的だった。 アートの持つ価値が平和に結びつくことを知っているからこその違和感だと思う。強いメッセージだった。 かなり長くなってしまった。この『平和と愚かさ』にはこのような人文学やアートが思考を政治から解放する装置として機能するということが力強く述べられていると思う。 僕は自分の興味の赴くところで、上記の部分について感想を書いたが、それ以外にも、サラエヴォ包囲、731部隊、チェルノブイリ原発事故などについても詳細な歴史と哲学的な思索が述べられており、そちらも現代を捉えるのに大変参考になる論説となっている。 大変な名著と思います。みなさん、ぜひご一読ください。

伊藤裕満@Blow_the_Night2026年1月3日読み終わった全編通して面白く、引き込まれた。 特に「悪の愚かさについて」はページを手繰る手が止まらず、他にも「顔と虐殺」「おわりに」と素晴らしい文章の連続だった。柴崎友香さんの『帰れない探偵』を読み終えたばかりで、探偵小説の件りが出てきた偶然には驚いた。特に記憶に残った箇所は、「探偵小説は20世紀の現実の反映」、「大量死(虐殺)=大量生(団地)と虚構」や、悪の愚かさを愚かなまま記憶する難しさ、そのヒントに『ねじまき鳥クロニクル』の井戸を引いてくる流れは素晴らしいし、デュピュイの「過去が未来を決定し、未来が過去を決定している」という時間感覚の件り、「『顧客担当』(『啓蒙』の実践者)として…独自の役割を果たすことが…現代の哲学者の…ミッションだ」の件りなども、感銘を受けた。まさにこの本が啓蒙の実践となっている。

Shk@sss_mmm_332026年1月2日読んでる破局の話 原発に関わる哲学の論考だけど、哲学だしだからこそか、人間関係、友人や恋人や家族(はちょっと違うかも)との関係も包含した話だなと思った 過去の時点では破局という結果のことをほとんど考えられない だからこそ、事前に、その結果が起こることを前提としたり、あるいは、著者のように、その結果が起こらなかった場合のことを考えて初めて、その結果について考えることが、というか受け入れることができる? もっかいちゃんと読も 客と裏方の話は、実家が服を売る自営業なのもあって(関係あんのかな)、なんとなく感覚としてあったのか、すんなり理解できた気がする
ジョルジオ・ポメラーニ@Giorgio_Pomerani2025年12月31日読み終わった著者が世界中の戦地と元戦地を回って書いた紀行文的哲学書だが、リゾート地で書かれたという最終章が実は一番面白い。

euy@euy2025年12月28日刊行記念イベント行ってきた。示唆に富んでいてすばらしかった。 次回作、次々回作の構想の話もあり、めちゃくちゃおもしろかった。海外の内紛の話から日本論まで幅広くて、心意気を感じる。自分も話についていけるように勉強しようって思った💪 動物化するポストモダンとつながってるのも見事すぎてやばい。 質疑応答にも一つひとつ丁寧に答えてて、サインのときも優しくて、サービス精神旺盛やった☺️




tsukasakitajima@tsukasakitajima2025年12月28日読んでる世界が不条理なものであるのなら唯一の正義は存在しない。サラエヴォ市民の現実と理想の二律背反を重ね合わせる知恵はたしかにヒントになるだろうし、元来ホモサピエンス種には二十万年来の自然選択で培った知恵が蓄積していると楽観的に考える。
miura@musa7202025年12月28日読んでる収容所=人を殺す大量性 博物館=意味の回復 団地=人を生かす大量性 「大量死」≒「大量生」(笠井の議論) 被害者は被害に動機を求めるが加害者には愚かにも意味がない場合がある。人は意味もなく残酷なことしてしまう、その愚かさをどう記憶するか?アーレントの悪の陳腐さ どういった答えになるかが楽しみ


人生哲学@jax1984052025年12月25日読み終わった『平和と愚かさ』は、戦争や社会の暴力を背景に、人間の理性と愚かさがどう交錯するかを鋭く考察していますね。平和を望みながらも、無意識に愚かな行動を繰り返してしまう人間の性質に光を当てていて、現代社会にも通じる洞察が多いです。あなたは、著者が描く「愚かさ」は本当に避けられないものだと思いますか?それとも教育や社会制度で軽減できる部分もあるのでしょうか?
どっぱく@dotimpact2025年12月24日読み終わった旅行記がとぎれて哲学がはじまり、ひとしきり展開し、時間切れかのように終わってまた旅行記がはじまるのがすごくいいな。旅の合間の移動でうつらうつらして夢をみているような。 「ぼくたちは、世界を、裏方のウインドウと客のウィンドウ、すなわちソースコードのウィンドウとアプリケーションのウィンドウを切り替えながら眺めている。」
- ゼビア@Xivia2025年12月24日読んでる哲学「平和と愚かさはともに『考えないこと』の表現である点で共通している。(...)平和と愚かさが表裏一体であること。ここにはとても重要な問題がある」デンジ/チェンソーマンの愚かさと戦争と平和。平和や差異のような西洋哲学では思考不可能と言われている概念、考えようとすると消えてしまう概念という件で、チェンソーマンに食べられた概念は消えるという設定を想起した。


Shk@sss_mmm_332025年12月23日読んでる2部の最初の節まで読んで、一旦飛ばして3部の8を読んだ。 1部は、わかるっていうのもおかしいが、俺もみんなも結局こう(1部の主張)なんじゃないの?と思ってたけど、今世の中は結構そうでもないらしい、まじか。という感じ。 2部ちょっとむずい。ニュアンスはわかるけど。でも、分かってないのに言うのも変だが、わかりやすい文章だと思うし、大事なことが書いてあると思うから、また読んでみる。アンダーグラウンドは見たことあった。ねじまき〜はまだ読んでない。 全部読んでまとまった感想をまた整理したいなと思う文章だった。 あと単純に面白いのもすごい。 「賢い」?読者の誤解を想定してさらにめっちゃ賢い筆者がとにかく逐一先回りすることで論が展開していくのに笑った。
- Aquaporin@aquaporinase2025年12月23日読み終わった全体 ・考えないという平和の状況を考えるということ ・考えないために考えるということ の二点は本書を通じて変わらなかった点だと思うけれど、 それ以外の部分、特に、忘れること、幻想を見ること、現実を見ること、数でみることと、固有名(=子どもの顔(?))についての論に、抽象的な統一解のようなものは捉えられなかった。それは個別の例に対応して考えているからだと思う。 それは平和は思考不可能というように書かれていたこととも重なる。 判事がする仕事ととても近いのだろう。どんな事例でも個別の事例にそった手掛かりがある。そして、それに向き合うものは考えざるをえないのか、意気込みをもってなのかわからないし、スタイルの違いがあると思うが、ともかく考える。そして、その時々の答えを出す(/ことになる)。

コタ@hts2025年12月21日気になる読み終わったやっと来た!、そしてやっと読了。面白かった。感想はいろいろなところでもっと学のある人が綴ってウィルので遠慮するが、読後感がとても幸せだった。普通の人間の普通の生活を肯定してくれている本だと感じた。

六輪花@rokurinka2025年12月20日読みたい欲しいけれど迷っている。 東さんの小説は大好きで楽しく読んだし、新書の『訂正する力』もふむふむと読んだけど、『訂正可能性の哲学』や『ゆるく考える』は所々さっぱり分からなかったから⋯








































































































