鷲津 "思いがけず利他" 2026年3月21日

鷲津
鷲津
@Washizu_m
2026年3月21日
思いがけず利他
第一章 業の力 落語は素人に等しい私でも、談志の落語論に引き込まれました。落語は業の肯定。単なる人情噺とは違う。談志が終生かけた演目「文七元結」の変遷は興味深いものでした 親鸞和尚の教えと絡ませ、利他の本質に迫ります。他力はすなわち仏の業、浄土の慈悲は他力の利他 『人間が行う利他的行為は、この他力が宿ったときに行われるものです。意思的な力(=自力)を超えてオートマティカルに行われるもの。止まらないもの。仕方がないもの。どうしようもないもの。あちら側からやってくる不可抗力なのです。』 第二章 やって来る -与格の構造 「主格」に対して「与格」、この文法表現は新鮮でした。主格構文で「私はうれしい」を、与格構文で言い換えると「私にうれしさが留まっている」 自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合「与格」となる…「利他」は「与格」の状態で現れる 次に大好きな数学者ラマヌジャン、岡潔が出てきて、読みが止まらなくなりました 『数学と音楽が似ていると感じられる理由の一つとして、「論理」というものがいつも決まって「流れ」を構成する、そしてその流れとは優れて音楽的な流れとよく似たものであるということが挙げられる。』 この後も志村ふくみ、土井善晴、民藝へと話が進み「与格」のイメージが補強されていきます 章の最後では 『利他的になるためには、器のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要であると私は思います。』 ここまで読み終えて、「利他」に対する長年抱えてきたモヤモヤ感に決着がつく…期待に胸を膨らませました 第三章 受け取ること 「利他」と「利己」の違いに関する記述が続きます。この章から少しソワソワした気持ちに変わりました 『利他が起動するのは「与えるとき」ではなく「受け取るとき」です。(略)自己が受け手になること、そのことによって利他を生み出すこと。これは前章で論じた「与格」の構造と通じています。受け手にとって大切なのは、「気づく」ことです。』 ここで、はたと読みが止まりました…違和感、全然違う演目を見せられている感覚 この後も受け取ることで起動する「利他」が補強されていきます…読み進めるほど違和感が大きくなっていく、この本は「利他」ではなく別の言葉について語っているのでは… 第四章 偶然と運命 自己責任論への批判、現生人類の生き残りと偶然性、そして「合理的利他主義」の否定.利他の根底には偶発性がある…この章に至る頃には全く共感できない自分がいました おわりに 『重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、この器にやって来るものが「利他」です。器に盛られた不定期の「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。 このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだと思います。』 この本で「利他」と呼ぶ言葉は「(仏の教え)救済」と読み替えた方が私にはしっくりきます。親鸞和尚の教えをベースにしてるのだから当たり前なのかも知れません 私にとって「利他」「利他的行動」は、以下の事象を指すと考えています 『サバンナで突然ライオンに遭遇した親子二人連れ。子を助けるため親は迷いなくその身をライオンに捧げる様』 『小説「容疑者xの献身」で石神がとった行動』 「利他」は与格ではなく、主格だからこそ現れる行動。純粋に愛するものを守るための行動。神や救済への想いなんてどこにも存在せず、ましてや与格的な誰かが受け取ることなんて、はなから考えていない行動 「利他」が難しいところは、その愛情の対象をどこまで広げられるか、そこに尽きるのではないかと思っています 本をディスるような内容になりましたが、「利他」の本質を知りたい、そんな私がこの本を読んだ感想を、正直にそのまま書き記しました
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