
ジクロロ
@jirowcrew
2026年3月22日
地下室の手記
ドストエフスキー
かつて読んだ
しかし、にもかかわらず、ぼくの深く確するところによれば、たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである。
(p.12)
しかし、それより何より、ぎりぎりの肝心な点は、こうしたいっさいが、強度の自意識には固有の正常な法則と、その法則から直接に出てくる情性とに即して進行する点である。してみれば、この場合、何かになり変ることはおろか、何をしようにも手も足も出ないというのが理の当然なのだ。
(p.14)
「意識は病気である。」
「病気」とは意識そのものではなく、
意識の執着性とその持続の側を指す。
"存在は病である。存在が有限だからではない。
存在に限界がないからこそ存在は病なのである。"
(『時間と他者』レヴィナス p.29)
執着性とその持続、
つまり変化が訪れない状態。
苦悩とは、時間が流れずにいる状態。
「人間には空気が必要ですよ、空気が、空気が、空気が……何よりも!」
(『罪と罰』ドストエフスキー 第六部1)
「空気」とは、自由であり束縛。
何もない開放的な空間における(精神的)呼吸であり、ある時代を支配している思想や傾向。
言葉は、相容れない二つの意味をもつ。
「いい加減」とは、適切と不適切、両方の意味を包含する。
意識への執着は無意識を強固にする。
主人公は「美にして崇高なるもの」を意識しながらも、卑劣な行為を繰り返してしまう。
存在への執着は存在を「あらぬもの」に仕立てる。
賢い人間であろうとする、その生き様は「賢さ」から最も遠い人間に映る。
人間がまっとうに人間らしく生きるには、
少なくとも二つ以上の世界が必要な気がする。
光があるところには影を認めなければならない。
当たり前のようだが、
一人の人間における多面性こそが自然。
たった一つの人格、存在の一面性こそが
異常であり、「病気」である。
執着は喜劇を招き、
(隠された)多面性が悲劇を招く。


