あざらしシンイチ "生きることは頼ること 「自己..." 2026年3月22日

生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ
Audibleで聴いた。はじめにとおわりにが上手い要約になっているのでそこから読むとよいのかも。kindleセールで見送った本だが結構面白かった。 まずは自己責任論の歴史とその限界や構造的欠陥を論じ、特に國分功一郎が紹介した中動態の議論から誰が責任を持っているのかはとても曖昧で、恣意的なものであるし、責任を負うべき対象が政治的にコントロールされ得る可能性を示す。例えばハンナアレントは第二次世界大戦頃のドイツで自己責任が強く求められる一方で、ユダヤ人や新ユダヤ的な"思想犯"の密告を行なうことが国民としての責任として受け入れられていた例を話す。 これらについては『自己決定の落とし穴』を紹介している積読チャンネルの動画とも通じるところがあって、これ積読チャンネルで見たやつ!となった。 この本ではいわゆる新自由主義的な自己責任論で語られる責任を「強い責任」と定義し、これに対して新しい責任の概念「弱い責任」を論じる。強い責任は何に対して誰が責任を取るのかや、責任の排他性という特徴があるが、弱い責任はむしろ誰に対して責任を持つかに着目する。例えば、駅で迷子になってる子供を見かけた際にそれを放置することは大人としての責任を果たしていないということができるが、子供を見かけたのは全くの偶然であるし、自分の意思で出会ったわけでもない。しかしこれは明確に人間社会では責任とされるものである。 この弱い責任について、ハンスヨナス、エヴァフェダーキティ、ジュディスバトラーの思想を追っていくことで、論じていくのが本書の中盤からの展開である。 結局人間は誰かに頼られ、頼り、そうした社会的関係のなかで生きているのであり、自分の意志で自分の責任のもと自由を謳歌する、その責任は負わねばならないという"新自由主義的な"自己責任論では掬いきれないものがある。 論理展開の甘い部分はあるにせよ、私自身はそしていわゆる市場経済があるからこそケアができるというように補完的にケアと市場と捉えているのでこれはこれで抜けている部分はあると思うが、昨今の人口に膾炙している俗流自己責任論に対するcounterpartとして有用な議論だと感じた。
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