
綾鷹
@ayataka
2026年3月25日
サラバ!(上)
西加奈子
1977年5月、圷歩は、イランで生まれた。
父の海外赴任先だ。チャーミングな母、変わり者の姉も一緒だった。
イラン革命のあと、しばらく大阪に住んだ彼は小学生になり、今度はエジプトへ向かう。
後の人生に大きな影響を与える、ある出来事が待ち受けている事も知らずに――。
・僕はこの世界に、左足から登場した。
母の体外にそっと、本当にそっと左足を突き出して、ついでおずおずと、右足を出したそうだ。
両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていたのだろう。医師が、僕の腹をしっかり掴んでから初めて、安心したように全身を現したのだそうだ。それから、ひくひくと体を震わせ、皆が少し心配する頃になってやっと、僕は泣き出したのだった。
とても僕らしい、登場の仕方だと思う。
・「彼ら」は、僕のように卑屈に、ニヤニヤと笑っていた。僕はその笑顔を見るのが嫌だった。唾を吐きかけられたほうが、まだましだった。でもそんなことをしたら、母がどんなに怒るか、僕には想像も出来なかった。僕はちらちらと、「彼ら」を振り返った。
「彼ら」の中に、ひとりだけ笑っていない子供がいた。5人の中で、一番小さな男の子だった。
僕はその子と目が合うと、咄嗟に笑ってしまった。
母に手を引かれながら、必死で笑顔を作ったのだった。それは、僕なりの「ごめんなさい」なのかもしれなかったし、そうではないのかもしれなかった。ただ分かっていたのは、僕の笑顔が、今まで作ったどの笑顔よりも、卑屈なものだということだった。
その子は、僕に向かって唾を吐いた。
白い泡が、べしゃっと、地面を汚した。
ニヤニヤと笑っている男の子たちの中、その子だけが、怒りに燃えていた。
僕はショックを受けた。数秒前は、「唾を吐きかけてくれた方がまし」、そう思っていたのに、実際そうされたときのショックは、計り知れなかった。地面に吐かれた白い睡は、僕を直接汚すよりも強く、僕を傷つけたのだ。
母のやったことは間違っている。それは確かだ。
だが僕は、母のやったことに、ほとんど感動すら覚えていた。
僕だって、本当はそう思っていた。「汚い」と。「触るな」と。でも、僕は、「そんなこと、決して思ってはいけない」と思っていた。誰に教わったわけでもないのに、僕はエジプシャンの子を、とりわけ学校に行くことが出来ない、物乞い同然の生活を送っている「彼ら」を、決して見下してはいけないと思っていた。
あなたたちに対して悪意はない、あなたたちのことを見下してはいない、そう言えない代わりに、僕は笑っていた。そして「彼ら」が、僕の笑顔に喜んで近づいてくると、恐怖で震えた。心の中で「こっちへ来るな」、そう叫んでいた。
僕に唾を吐いたあの子は、僕の笑いの意味に、気づいていたのだ。
僕が結局、彼らを下に見ていたことに。
扱いづらい、僕たちとはレベルの違う人間だと、認識していたことに。
母のやり方は絶対に間違っていたが、間違っている分、真実だった。己を貶める行為をすることで、母は彼らと同じ地平に立っていた。「そんなとと、してはいけないことだ」「人間として下劣だに、そう料弾されるやり方で、母は叫んだ。
でも僕は、安全な場所で、誰にも石を投げられない場所で笑顔を作り、しかし圧倒的に彼らを見下していたのだ。母よりも、深いところで。
僕は自分がしていたことが、恥ずかしくて仕方がなかった。一度そう思うと、父のおかげで大きな家に住んでいること、学校に通っていること、すべてのことが恥ずかしく思えてきた。
僕と「彼ら」とに、どのような違いがあるのだろう。
どのような違いが、この現実を生んでいるのだろう。
カイロにいる間、母の無邪気さ、素直さは、ずっと変わることがなかったが、僕が「彼ら」に対して思う、この後ろめたさ、羞恥心も、決して消えることはなかった。
僕は毎日、「彼ら」に会わないことを祈った。そしてその祈りは、絶対に叶えられなかった。
僕は毎日、誰かしらの「彼ら」に会い、そのたび卑屈に笑い続けたのだった。
・僕はそのとき、猛烈に恥ずかしくなった。そして、ヤコブへの愛情で胸が潰れそうになった。
僕は、自分がどれほどヤコブのことを愛しているか、心から尊敬しているか、伝えたかった。
その気持ちだけは嘘じゃないと、分かってほしかった。
僕たちは、「エジプシャン」と「日本人」だが、そしてその「ふたつ」の間には隔たりがあるかもしれないが、僕らに関しては、僕らに関してだけは、それを越えた強い何かがあるのだと、言いたかった。だが言えなかった。少なくとも、それを言うのは僕ではない、そう思った。
溢れそうな感情を言葉にする代わりに、僕は手をヤコブの肩に乗せた。僕はすべての思いを掌に委ねた。ヤコブに伝わりますようにと、願った。
ヤコブは僕の手を握った。僕のより大きなその手は、やはり温かく、湿っていた。ヤコブは、こう言った。
「サラバ。」
その言葉だけで、僕は救われた。
僕らは「サラバ」で繋がっている。僕らの間には、何の隔たりもない、僕らはひとつだ。そう、思うことが出来た。
・急な訪問だったにもかかわらず、お母さんは僕の体を抱きしめ、大きな声で何か言った。僕にはヤコブ以外の言葉は分からなかった。妹ふたりは、そばで恥ずかしそうに笑っていた。
お母さんは、とても太っていた。美人かどうかなんて言えるような風貌ではなかった。ヤコブの妹ふたりもまるまると太り、僕はヤコブの体格の良さの理由が分かったような気がした。
ヤコブは家族に囲まれて、嬉しそうだった。
家族はヤコブを愛していた。それは僕にも分かった。そしてヤコブは、その家族を誇りに思っていた。自分の母親を心から美人だと思っていたし、この場にいないお父さんのことを、何度も何度も褒めた。
ホテルで会ったとき、目を逸らしたのは、差恥からではなかったのだと、そのとき気づいた。
ヤコブは僕と母に、ただ気を使っただけだったのだ。もしかしたら、ホテルの従業員に、ホテルの客を見てはいけないと、言われていたのかもしれなかった。僕は自分の卑しい思いに、また打ちのめされた。そして同時に、ヤコブをますます愛しているという実感を得た。自分の仕事を、地下の家を恥じないヤコブを、僕は眩しく思った。
・僕にはヤコブの言葉は分かったが、エジプシャンの言葉は相変わらず理解出来なかった。でもそれはきっと、いつも僕たちに浴びせられる、他愛ない野次と同じだろうと思っていたし、普段のヤコブは、そのような心ない野次程度で、怒りを露にするような男ではなかった。
だが、そのときヤコブは、そばにあった空き缶を拾い、「彼ら」に投げつけたのだった。僕は心から驚いた。そんなヤコブを見たのは、もちろん初めてのことだったのだ。
「彼ら」は逃げたが、ヤコブは怒りが収まらないらしく、目についたものを次々と、もう逃げていった「彼ら」にぶつけていた。
しばらくして、我に返ったヤコブは、僕に詫びた。とても、恥ずかしそうだったが、同時に、まだ怒りが収まってもいないようだった。
「大切なものを、馬鹿にされたんだ。」
ヤコブの声は、低く、乾いていた。僕は静かに、ヤコブの肩を叩いた。
「サラバ。」
ヤコブは、僕を見た。その目が安堵で濡れていた。
僕たちは、ほとんどその言葉にすがるようになっていた。
「サラバ。」
ヤコブは、肩に置いた僕の手を握った。そしてまた、あの高貴な笑顔に戻った。
「サラバ!」
それは、ほとんど魔法の言葉だった。
・「逃げ場みたいなもんやったんかも」
あるとき、どうしてそんなに詳しくなったのか、と訊いた僕に、須玖は答えた。
「家のことは嫌いやなかったけど、父親が酒飲んだら荒れるタイプで。兄ちゃんとようぼこぼこ殴りあってたし、姉ちゃんもすぐグレて。けっこう家の中が殺伐としとったんやけど、そんな中で本読んでたら、なんやろう、この世の中にこんな世界があるんか、て驚いて。家の中で本開いてるだけやのに、一気に別の世界に行けるやん」
須玖はそう言いながら、手に持っていた文庫を、掌でぽんぽんと叩いた。チャールズ・ディクンズの『大いなる遺産」だった。
「小説だけやない。普楽も、映画もそうやねん」須玖は、文庫本を愛おしそうに見ていた。
「今俺がおる世界以外にも、世界があるって思える。」
須玖のその言葉は、のちの僕に影響を与えた。とても大きな。
でも、その時の僕は、須玖がなぜ自分の知識をひけらかさなかったのか、その理由を目の当たりにしただけだった。
須玖にとって映画や音楽、小説は、知識ではなかった。それも、自分を飾るためのそれではなかった。須玖にとってそれらは、よりどころだった。もっともっと、切実なものだった。だから誰かにひけらかす必要はなかった。ただそれらと共にあるだけで、須玖はわれたのだ。
だから須玖は、夏枝おばさんに、とてもよく似ていた。