
綾鷹
@ayataka
2026年3月25日
サラバ!(下)
西加奈子
一家離散。親友の意外な行動。恋人の裏切り。自我の完全崩壊。
ひとりの男の人生は、やがて誰も見たことのない急カーブを描いて、地に堕ちていく。
絶望のただ中で、宙吊りにされた男は、衝き動かされるように彼の地へ飛んだ。
8年ぶりに読んだ。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」という言葉。
気づいたら流されているような自分には胸に刺さった。
周りから何を言われても揺るぎないものを自分も持てるだろうか。
・「今橋さんって、私のこと軽蔑してますよね?」
僕はむせた。もちろん図星だったからだし、いつも無口な鴻上が、臆せずにまっすぐ、僕の目を見ていたからだ。
「むせてる。図星だからだ。」
鴻上はそう言って、声に出して笑った。全然傷ついているように見えなかった。むしろ、楽しそうですらあった。
僕は、そんな鴻上が怖かった。何を企んでいるのか、全く分からなかった。
「別に、軽蔑なんて・・・・・・。」僕がそこまで言うと、
「いいんです。無理しないで。分かってるし。」
鴻上は、牛乳を飲み干した。
「軽蔑されるのって、楽だから。」そしてやっぱり、にっこりと笑った。
・彼らは鴻上と関係を持ったにもかかわらず、いや、恐らく持ったからこそ尚、鴻上を憎んだ。
鴻上を憎むことでしか、自分を正当化出来なかったのだと思う。
「ほら、キャバクラとか風俗行ってんのに、なんでこんなとこで働いてるんだって女の子に説教するおじさんいるでしょ?そんな感じですよ。」
鴻上の言うことは当たっていると、僕も思った。
僕がもし鴻上と関係を持っていたら、僕も同じように鴻上を憎んだと思う。自分を堕落させた悪魔として。その証拠に、僕はかつて関係を持った女の子とは、二度と会いたくなかった。
その女の子たちは、悪くなかった。自分を嫌いになることが、怖かったのだ。
・「うちに来る人たちが、信じられるものなら、何でもな、良かったんや。」
おばちゃんは、様々な言葉をはしょった。それはおばちゃんの、いつものやり方だったが、僕
はそれが嬉しかった。おばちゃんが、僕のことを認めてくれている、それは証拠だと思った。僕は自分の頭で考えた。
何でも良かった、というおばちゃんの、その言葉の裏にある意味を。
信じられるものなら、何でも良かった。
あらゆる人の、たくさんの苦しみ。決して解決出来ないものもあったし、どうしても納得できない残酷な出来事もあった。きっとそういう人たちのために、信仰はあるのだろう。自分たち人間では、手に負えないこと。自分たちのせいにしていては、生きてゆけないこと。
それを一身に背負う存在として、信仰は、そして宗数はあるのだろう。
だがおばちゃんは、それを既存のものには求めなかった。
おばちゃんは聡明な人だった。いや、聡明である前に、危険なこと、誰かに苦しみを与えるものを、見極める力を持っていた。
「なんでも良かったんや。」
既存の宗教に頼ると、また新たな苦しみが生まれると、おばちゃんはきっと思ったのだ。宗教の違いで、たくさんの悲劇的な抗争が起こっていること、「教義」の名の下に、迫害されている人々がいることを、おばちゃんはニュースによってではなく、ほとんど体感として分かっていたのだ。
・「うちの家によう来てたチャトラがおったやろ。覚えてるか?」
覚えていた。おばちゃんの家に来たたくさんの猫たち、中でもチャトラの猫は、よく見た。それはどこにでもいる、普通の猫だった。何の神々しさもない、ただの猫だった。
「あの子が伸びをしたら、お尻の穴が、ぶぶぶって震えるねん。それが可愛くてなあ。それを見てたら、おばちゃんこなんでもどうでもよくなるんよ。
おばちゃんは、思い出したように笑った。その拍子に、鼻水がだらりと垂れたが、おばちゃんは気にしなかった。
「チャトラの肛門ってこと?」僕は、恐る恐るそう言った。
「せや。」
「サトラコヲモンサマ?」「そう。」
そのときには僕は、我慢できず、わずかに震えていた。結果何百人を巻き込み、一大宗教(おばちゃんはそんなことは一言も言わなかったが)としてこの街を、そして地域を熱狂させたものの正体が、実はチャトラ猫の肛門だったのだ。
「なんでもどうでもよくなるんよ。」
それこそが大切だった。立派なものであってはいけない。こちらを畏怖させるものであってはならない。この世で起とっている様々な出来事を、「どうでもよくなる」と、思わせるもの。
・「姉ちゃんは、なんて言った?」
「黙ってた。じっと、おばちゃんを見てたよ。」僕はその言葉だけで、姉の心が分かるような気がした。
自分が肩じたもの、心から肩じ、寄り添ったものは、大いなる力ではなかった。偉大なる何かではなかった。
それは、猫の肛門だったのだ。
今まで散々見てきた、どこにでもある、取るに足らないものだったのだ。
あの日、部屋から出てきた姉の姿を、僕は思い出していた。ほとんどドレッドになった髪、垢じみた皮膚、そして、強烈なにおいを。
姉は飢えていた。小さな頃から、あらゆるものに飢えていた。
おばちゃんは、姉のそんな姿を、いつも見ていた。おばちゃんは、姉を愛していた。そして自分が創作した「サトラモフモンサマ」、取るに足らないそれに心を奪われている姉を、いつまでも見守るつもりだった。
「愛されない」と思うことを、「足りない」と飢えていることを、姉が自分のせいにすることはないように、だから姉にとって「サトラコヲモンサマ」は必要なものだと、おばちゃんは思ったのだ。後にあのような終意を迎え、それは姉を決定的に傷つけたが、それでももちろん、おばちゃんが姉を見捨てるはずはなかった。おばちゃんは、姉を愛していた。
「あの子には、自分で、自分の信じるものを見つけなあかん、て言うたんや」
僕の鼻孔には、姉の部屋の強烈なにおいが、まだ残っていた。そしてそれは、自動的に、壁一
面に膨られた尻尾の生えた巻貝を、思い出させるのだった。
「自分で、自分の信じるものを見つけなあかん。」姉の宗教的放浪は、こうして始まったのだ。
姉は自ら動きだした。「サトラコモンサマ」に代わるもの、自分の信じるものを見つけるために。
・ネットの書き込みは、すさまじいものになっていた。
たった一度の登場で、ここまで叩かれる人物も珍しかった。それだけ姉の登場はセンセーショナルだったのだし、叩き甲斐があったのだろう。無記名の書き込みは、後から後から湧いて来た。
インターネットの広がりを、何かに似ていると思っていた僕だったが、書き込みの文字を見続けるうち、気づいた。
これは、イナゴの襲来に似ているのだ。
いやイナゴでも蝙蝠でも、なんでもいい。とにかく生物が大量発生して、村や森をまるごと食い尽くすさまに、それは似ているのだった。
・「そんなときに、あれが起こってん。」あれ、と言われて、すぐに思い出せない自分が恥ずかしかった。
「ビルが崩れていってるのを見て、自分も崩れた。」
須玖が言っているのは、アメリカの同時多発テロのことだった。
「何が怖かったかって、あの出来事が起こった背景を、自分が何も知らんかったことやねん。ものすごい映像の裏で、世界中で、どれだけの人が死んでいるのか、俺は何も知らんかった。」
須玖は、まるでこの瞬間映像を見ているかのように、苦しそうだった。須玖は、やはり変わっていなかった。他人のことを、それがたとえ国境をまたいだ遠い場所のことでも、自分の家族のことのように、心を痛めることが出来た。僕は須玖を前にして、再び恥じていた。
僕にとって世界で起とっていることは、ただ、ここ以外で起こっていること、だった。自分の生活に影響がないことを、僕は深く考えようとしなかった。知ってしまうと苦しくなることから、僕は巧妙に逃げた。
「俺もう、死ぬのを待ってられへんくなってん。」
須玖は自ら死のうと思った。いわれなく命を奪われる人がたくさん、本当にたくさんいる中で、自分はなんて取るに足らない、役に立ちもしない存在なのだと、自分を恥じた。それは僕が感じていた羞恥などとは、比べ物にならないものだろう。あるいは須玖の精神状態がほとんど崩壊しかけていたことは確かだったが、でも須玖は、いつだって何かに寄り添う人だった。誰かを助けられない自分であれば、そんな自分はいらないと、そう思ってしまったのだ。
・「歩、ヨガってやったことある?」
拍子抜けした。それは僕の期待していた返事では、もちろんなかった。僕は姉がふざけて僕をからかっているのかと思った。
「はあ?」
「真剣に。ヨガってやったことある?」「ないよ。なんやねん。」
わずかに苛立った僕に気を使ったのか、アイザックが僕を見て、愛想笑いをした。
「ヨガって、いろんなポーズがあるでしょう。そのどれも、体の幹がしっかりしていないと出来ないの。」
「それが言じることと何の関係があるん。」
姉の目を見ると、それは鋭く光っていた。人をからかって笑うような目とは、まったく違った。
「バランスが大切なのよね。そのバランスを保つのにも、体の芯、その、幹のようなものがしっかりしていないとだめなの。体を貫く幹が。」
姉は落ち着いていたが、熱心だった。時々助けを求めるようにアイザックを見たが、アイザックはもちろん、僕達が何について話しているのかは、分からないのだった。
「幹。私が見つけたのは、信じたのは、その幹みたいなものなの。」
・「ある寺院で、バター彫刻を見たの。バター彫刻って、素晴らしいの。本当に精巧で、美しいの。
そして誰が作ったのか分からない。何故ならそれは、仏様にさしあげるものだからよ。
私はそこでも泣いた。涙があとからあとから溢れて来て、止まらなかった。そのときに、アイザックに会ったの。アイザックは私の涙を見た。見ざるをえなかったのでしょう。だって私は立っていることすら出来なかった。座り込んで、ずっと泣いていたの。そしたらアイザックが、こう言ったの。
『あなたはこの彫刻を見るためにやって来たんですね』
その言葉は半分間違っていたし、半分正しかった。私はこの彫刻を見るためにチベットに来たんじゃない。でも、来たのよ。私はここに来た。分かる?歩。
私がここに来なかったら、この彫刻を見ることはなかったし、私の涙はなかったのよ。」
姉はまるで、今目の前にその彫刻があるみたいに、指を伸ばした。何かに触れようとしていた。
そうしながら、でも、姉はまっすぐ立っていた。まったく揺れることなく、まっすぐに。
「私が、私を連れてきたのよ。今まで私がじてきたものは、私がいたから信じたの。
分かる?歩。
私の中に、それはあるの。『神様』という言葉は乱暴だし、言い当てていない。でも私の中に、それはいるのよ。私が、私である限り。」
僕はうつむいた。姉を直視することが出来なかった。そうしていても尚、姉の気配だけは感じられた。恐ろしく濃厚な気配だけは、感じることが出来た。
「私が信じるものは、私が決めるわ。」
僕の足元を、蟻が這っていた。黒いその体は、踏むとすぐ潰れるだろうと思った。
「だからね、歩。」僕は蟻を、じっと見ていた。
「あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが肩じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。」
僕は、姉をそこに残し、歩き始めた。姉はひるまなかった。姉は、そこにいた。かつて自分が肩じ、やがて鮮やかに捨て去ったものの前で、じっと立っていた。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」
・僕は再び、姉をブラックボックスに入れた。かつてそうしたように、姉を憎むことで、僕は正しい人でいられた。いや、今や姉だけではなかった。姉を簡単に許した母も、出家という名の下に僕らから逃亡した父も、僕を裏切った澄江も、かつての恋人たちも、僕に仕事を回さない出版社の人間も、僕にとっては、すべて悪しき存在になり下がった。彼らだけが悪くて、僕は悪くないのだった。何も。僕は最初に目をつむり、次に耳をふさいだ。
・鴻上はいい奴だった。最高にいい奴で、話が出来て、何より優しかった。そんな湯上に、男として惹かれることは危険だったし、そもそも僕は、鴻上を軽蔑していたのだった。鴻上の股のゆるさは、ほとんどその海のような優しさのなせる業だったが、僕は鴻上のその行為を何より嫌悪し、まして自分の恋愛の対象になどは、しないようにしていた。
鴻上が自分の恋人であることなど、プライドが許さなかったのだ。
ちょうど、澄江に裏切られることを許せなかったのと同じように。
僕はそのプライドを、誰に見せたいのだろう?
いったい誰に?
「あなたは誰かと自分を比べて、ずっと揺れていたのよ。」
姉の声が聞こえた。咄嗟に息を呑んだ。おかしな香み込み方をしたからか、耳の圧力がおかしくなった。須玖と鴻上が楽しそうに話す言葉が、まるで水の向こうから聞こえるようだった。そして今まさに僕は、魚と鳥が水と空に分けられたように、ふたりと隔てられているのだった。
・友人である僕に「ビッチ」とさえ言われた自分の恋人のその過去を、恥じてはいないのだ。
全身を閃光のようなものが貫いた。
僕は鴻上が好きだった。はっきりそう思った。そして鴻上を、その評判によって好きにならないようにしていた。鴻上を恋人にしたその瞬間、まさに僕が放ったような一連の言葉を聞くのが怖くて、僕は目をつむったのだ。
須玖は、そんなこと気にしなかった。
評判なんてどうでも良かった。過去なんてどうでも良かった。今ここにいる鴻上を愛せる須玖を、だから鴻上も愛したのだ。僕はそのとき何故か、鴻上が言ったことを思い出していた。
「ものが増えるのが恥ずかしいんです。」
何も恐れず、何も恥じなかった鴻上が、唯一恥じたこと。ものが増えること。それはきっと「生き続ける意思」だったのだ。若くして死んだ姉を見て、鴻上は自分が生き続けることを恥じていた。それはまさに、須玖が震災の後、思っていたのと同じように。
だがこれから、鴻上はそれを恥じることはないだろう。須玖がティラミスを見つけたように、鴻上は須玖を見つけた。生きる意思を持つことを、恥じずに生きてゆくことを、決意したのだ。
・「あなたは誰かと自分を比べて、ずっと揺れていたのよ。」僕の好意さえ、誰かに監視されたものだった。
みんなが見て羨ましがるような女か、恥ずかしくない女か。
僕は鴻上を好きにならなかった。澄江を恋人にしていることを恥じた。誰かの言葉を恐れて、それを隠した。僕は自分の何も肩じていなかった。僕は自分の周りにあるものばかりを肩じた。
その真理に寄り添い、おもねり、自分の感情を無視し続けた。
僕は、澄江が好きだった。なのに、自分の心に嘘をついて、澄江を傷つけた。
そして今、僕は最愛の友人たちの幸せを、心から喜ぶことが出来なかった。それどころか、傷つけようとした。この上なく汚らしいやり方で、傷つけようとしたのだ。
「今橋?」
僕は席を立った。
「ちょっとトイレ。」
精一杯の笑顔を作った。そしてトイレに向かっている短い通路の途中で、もう泣いていた。僕は自分が嫌いだった。大嫌いだった。
・お母さんの避け方は、あなたのとは違った。あなたは私のことを怖がっていたけれど(あなたは否定するでしょうね)、お母さんは、私に怒っていた。私がお母さんの人生に寄りまわないととに、怒っていた。そういう部分では、歩と同じね。自分の人生は、誰かの人生ではないの。そして誰かの人生も、自分の人生ではない。
私はずっと、お母さんに愛されたかった。
でもそれは、他の子供のように、ではなかった。じゃあどういう風に愛されたいのか、自分でも分からなかった。私はずっともどかしかった。私は私が分からなかった。私のことを、まるのまま私だと受け入れることが出来なかった。だからお母さんも、そんな私の愛し方を分からなかったのよ。
・あなたはこの手紙を嫌がるかもしれない、笑うかもしれないし、読まないかもしれない。私の考え方がおかしいと、やはり私を避けるかもしれない。なんだそれは、神様気取りかって、そう言って背中を向けるあなたが、目に浮かびます。
でも私は私を信じる。私が私でい続けたことを、信じているの。
だからもしそれが間違いだったとしても、もう私は壊れないわ。私は誰かに騙されていたわけでもない、誰かに任せていたわけでもない。私は私の信じるものを、誰にも決めさせはしないの。
私はあなたを愛している。
それは絶対に揺るがない。あなたを信じているからではない。あなたを愛している私自身を、信じているからよ。
・あのとき僕は、生まれて初めて、自分以外の人間のために祈ったのだ。誰か知らない神様に、ヤコブの幸せを祈ったのだった。
「どうか、どうか、ヤコブをお守りください。」
強い衝動に駆られた。それは限りなく、怒りに近いものだった。
僕は、どうしてここにいるんだ。
情報という名の文字を受け取り続け、だがそれは、心には決して残らなかった。僕は阿呆のように食べ物を欲する餓鬼みたいなものだった。そして僕は、ただ得るだけで、動くことをしなかった。
・「ヤコブ、エジプトに住んでいることをどう思う?」
ヤコブは、一瞬、何を言っているか分からない、という顔をした。
「君はエジプトではマイノリティだろ?」
どう言っていいか分からなかったので、「君が肩じているもの」と言い足した。ヤコブは口の
端をあげたが、笑っているというよりは、唇が動いた、という風に見えた。
「数は関係ない。」
ヤコブはそう言って、前を向いた。ヤコブの歩みは力強かった。
「大切なのは、人が、ひとりひとり違うことを認めることだ。」
ヤコブの英語は、端正だった。とても独学で学んだとは思えなかった。この語学力を得るために、ヤコブはどれほど努力したのだろうか。
「僕はコプト教徒だ。そして、僕の友人はイスラム教徒だ。じるものは違うが、違うからこそ、協力しなければいけない。今のこの国の状況を知ってるだろ?僕たちは手を繋ぐべきなんだ。」
ヤコブはそう言って、自分の両手で握手した。ヤコブの手の甲には、太い毛がびっしりと生えていた。僕はその手を見て、何故か悲しくなった。
「今のままでは、この国は誰がトップになっても同じだ。例えば僕が、アユムの帽子がほしいと思う。取る。でも、使い方が分からない。皆そうなんだ。トップに立っても、どうしていいのか分からないんだ。」
ヤコブの英語は、やはりとても美しくて、僕はそれが悲しかった。
「大切なのは、違う人間が、違うことを認めて、そして、繋がることだ。宗教なんて関係ないんだ。」
とても正しいことを言うヤコブが、僕は悲しかった。
・僕はとうとう、『ホテル・ニューハンプシャー』を読んだ。
手に取ったとき、少し胸が痛んだが、それだけだった。僕を小説世界に誘い、須玖という親友を与えてくれた小説を、僕はむさぼるように読んだ。
読み始めると、僕はたちまち僕という輪郭を失い、ベリー家の家族に寄り添うことが出来た。
共に笑い、共に怒り、共に涙を流し、ときに死に、そしてまた生き続けた。小説の素晴らしさは、ここにあった。何かにとらわれていた自身の輪郭を、一度徹底的に解体すること、ぶち壊すこと。
僕はそのときただ読む人になり、僕は僕でなくなった。そして読み終わる頃には、僕は僕をいちから作った。僕が何を美しいと思い、何に涙を流し、何を忌み、何を尊いと思うのかを、いちから考え直すことが出来た。
『ホテル・ニューハンプシャー』にも、かつての僕が線を引いていた。それはきっと、高校生の頃の僕だった。
”「あたしたちは変人でもないし、奇人でもないわ、おたがい同士では」とフラニーは言ったものだ。「雨と同じようにありふれているのよ」たしかに彼女の言うとおりだった。おたがい同士では、パンの香りと同じように、ごく普通だし、すてきでもあった。ぼくたちは要するに家族だった。』
僕はきっと、この文章に救われたのに違いなかった。いびつだった僕の家族が、どこにでもあるありふれたものなのだと、その一瞬、思うことが出来たのだった。
そして、今の僕が線を引いたのは、例えばこのような文章だった。
『そのようにぼくたちは夢を見続ける。このようにしてぼくたちは自分の生活を作り出して行く。
あの世に逝った母親を聖者として甦らせ、父親をヒーローにし、そして誰かの兄さんや姉さん彼らもぼくたちのヒーローになる。ぼくたちは愛するものを考えて作り出し、また恐れるものも作り出す。』
僕は作りたいのだった。物語を、化け物の長い物語を、作りたいのだった。