
ジクロロ
@jirowcrew
2026年3月26日

信頼 (ちくま学芸文庫リ-13-1)
アルフォンソ・リンギス,
岩本正恵
読み終わった
われわれに与えられるもっとも強烈で官能的なよろこびが、寡黙と沈黙を引き起こすのはどうしてなのだろう。見知らぬ人ではなく、心の通じあいが良好な相手、実際に一緒に暮らして、官能的な身体のすべてを惜しみなく与えてくれる相手の場合も、語りは沈黙させられる。
……
だが、しばしば「ああ」というきわめて短い表現が、目の前にある驚くべきものを巧みに表わすのに対して、ひたすら饒舌な描写は、話者のウィットと言葉の妙技を見せびらかすだけに終わる。
(p.277『寡黙』)
「ああ」という表現には、
言葉により描写しきれない豊穣さが宿る。
著者の言うところ、
それは、言葉にならない感謝、祝福。
それは、自身の「思慮深さ」のあらわれ。
その深さにこそ、いくつもの、無数の時間が
自他を問わず、同時に、重なりつつ流れている。
"言葉の成り立ちをさかのぼっていくと、そもそも言葉は意味から生まれたというよりは、思わず感じて漏れてしまった音、呼びかける声から始まったのではないでしょうか。「ああ」という言葉は感動を意味するけど、「ああ」そのものには意味がないように。"
(『「要するに」って言わないで』尹 雄大 p.62)
『源氏物語』から聞こえてくる
光源氏の無数の「ああ」。
その量では表現しきれず、照らしだせない
紫式部の、ひとつの意味のない「ああ」。
"こうした「日常」が一瞬にして地震や津波で失われるように、世界の秩序とはつかの間の「もの」にすぎないのではないか。私たちが生きている世界の実際が、崩壊の危機を宿したつかの間の「もの」にすぎないと気づくこと、永遠が不可能だとしりつつ、いつまでもつづくことを願い思慕すること、この痛切な思いが「もの」の「あはれをしる」ことなのではなかろうか。そして男女関係ほどはかなく、それゆえに永遠不変を願う「もの」はないのであって、和歌の中心的主題でありつづけたのではなかったか。"
(『本居宣長』先崎彰容 p.180)
「ああ」は
究極の時間(瞬間)を「もの(モノ)」にし、
「饒舌(おしゃべり)」は
何気ない日常(時間を伴わない空間)を広げる。
