鷲津 "生きていくうえで、かけがえの..." 2026年3月29日

鷲津
鷲津
@Washizu_m
2026年3月29日
生きていくうえで、かけがえのないこと
「書く」 うまくなど書かなくてよい。本当に心に宿ることを、手でなく、心で書けばそれでよい。(略)これが、自分が書く最後の文章だ、と思って書くことだ。今書いている言葉は、生者だけでなく、死者たちにも届く、と信じて書くことだ。そしてこの文章は、誰か未知の他者が、この世で読む、最後のものになるかもしれないと思って書くことだ。 「ふれる」 「さわる」と「ふれる」は違う。(略)ものにさわる、身体にさわる、というが一方では、心にふれる、魂にふれる、琴線にふれる、と自然に口にする。 「食べる」 身体は、一定の量の食べ物を欲する。しかし、心が求める言葉は量では満たされない。だから、たった一つの言葉でも充足を感じることはある。むしろ生きるとは、人生の、そのときどきに絶対に必要な、たった一つの言葉を探す営みだともいえる。 「喜ぶ」 大切に思う人との別離はときに、耐えがたい悲しみとなる。しかし、そう感じることができるのは、そこまで愛おしいと感じる相手に出会えているからだろう。出会うことがなければ、別れは存在すらしない。(略)もし、かつての自分に何か伝えることができるなら私は、よろこびは、悲しみという土に咲く花だと言うかもしれない。 . 若松さんが発する言葉は深い。僕は言葉を摘むのに精一杯で、その言葉を感じる段階はまだまだ先のようだ 『食べ物をたくさん食べればよいわけではないように、本も多く読むだけでは十分ではない。また、読みやすい本ばかり読む、それは不必要にやわらかい食べ物を食べ続けるのと同じである。次第に胃が弱って、通常の食べ物も消化できなくなるように、私たちの精神も考える力を失うようになる。』 前のエッセイで語られた言葉。僕にとって若松さんはこれまで読んでこなかったジャンルに属する。だから消化に時間がかかる。発せられた言葉のバックボーンにあるのは何か…それを理解する道はまだまだ遠い 今はまだ、うまく感じ取ることはできないけど、最後の文章に痺れた 「あとがき」 人生には何度か、まったく本が読めなくなる時期がある。いくら本を開いても言葉が心に届かない。(略)だが心配はいらない。そうしたときは、誰かが書いた文字を読む時節ではない、自分で書いた言葉を読め、と何ものかが告げているのである。(略)書くとは、他者に想いを伝える行為であるだけでは終わらない。それは自己とは何かを知る営みでもある。むしろ人は、書くことによってはじめて、自分が何を考えているのかを知る。
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