
socotsu
@shelf_soya
2026年3月28日

読んでる
在日朝鮮人二世である徐京植が2000年代に『ディアスポラ紀行』でこのように書き記していた内容を2026年のいま知ること。
"ナショナリズムを超えるということは、「先進国」という安楽な場所で、「先進国」人としての既得権を疑いもなく享受しながら、他者をナショナリストと名指していればこと足りるのではない。被抑圧者が抵抗のためにナショナリズムを必要とする状況、被抑圧者をナショナリズムへと結集させている抑圧構造、それを克服するのでなければ、少なくともそれを克服しようという意志と方向性を欠いていては、その言説は、「ナショナリズム」をではなく、「抵抗」を無力化する力としてのみ作用するだろう。" p.67
朴沙羅さんが『ヘルシンキ 生活の練習はつづく』で書いていた、自分のルーツを民族というカテゴリで称揚することへの距離の取り方を思い出す。そのことを自分のような日本に「日本人」として生まれついたマジョリティがどのように言い表せるか、言い表してよいのかと考えあぐねていることまで見透かされ、言い当てられてしまうこと。この批判にある意味気持ちよくならないで、じゃああなたはどのように行動するの、という話でもある。





