ディアスポラ紀行: 追放された者のまなざし (岩波新書 新赤版 961)

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匙@sajisann2026年5月21日読み始めたプロローグで出てきた母語と母国語の違い、考えたことがなかった。 “他方、「母国語」とは自らが「国民」として属している国家、すなわち「母国」の「国語」を指す。それは近代国民国家において、国家が教育やメディアを通じて人々に叩き込み、人々を「国民」へと造り上げる装置である。母語と母国語が一致しているのは一国家内部の言語マジョリティのみであって、事実上どんな国にも母語と母国語とが異なる言語マイノリティが存在する。その存在を無視または忘却し、母語と母国語とを同一視して怪しまないことも単一民族国家幻想のなせるわざといえよう。”






socotsu@shelf_soya2026年3月28日読んでる在日朝鮮人二世である徐京植が2000年代に『ディアスポラ紀行』でこのように書き記していた内容を2026年のいま知ること。 "ナショナリズムを超えるということは、「先進国」という安楽な場所で、「先進国」人としての既得権を疑いもなく享受しながら、他者をナショナリストと名指していればこと足りるのではない。被抑圧者が抵抗のためにナショナリズムを必要とする状況、被抑圧者をナショナリズムへと結集させている抑圧構造、それを克服するのでなければ、少なくともそれを克服しようという意志と方向性を欠いていては、その言説は、「ナショナリズム」をではなく、「抵抗」を無力化する力としてのみ作用するだろう。" p.67 朴沙羅さんが『ヘルシンキ 生活の練習はつづく』で書いていた、自分のルーツを民族というカテゴリで称揚することへの距離の取り方を思い出す。そのことを自分のような日本に「日本人」として生まれついたマジョリティがどのように言い表せるか、言い表してよいのかと考えあぐねていることまで見透かされ、言い当てられてしまうこと。この批判にある意味気持ちよくならないで、じゃああなたはどのように行動するの、という話でもある。





白玉庵@shfttg2026年2月21日気になる「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」の補完資料になると、図書出版クレインのツィートにあり。 この展覧会、予期しないところでルー・リードが出てきて「うわルー・リード」と思わず声が出てしまった。ナムジュンパイクがブイブイ言わせてた頃は朝鮮半島の歴史の知識なんてゼロに等しく、今この文脈で見直せたことはよかった。勉強はするもんだ。






















