綾鷹 "スロウハイツの神様(下)" 2026年3月31日

綾鷹
@ayataka
2026年3月31日
スロウハイツの神様(下)
人気作家チヨダ・コーキの小説が引き金となった事件から10年後、オーナーの脚本家・赤羽環とコーキを含むクリエイターの卵たちが共同生活を送る「スロウハイツ」を舞台に、新たな入居者・加々美莉々亜の出現と、過去の謎の手紙を巡る物語が展開される青春ミステリー。 面白かった。 「かがみの孤城」を読んだときも思ったが、「もしかしてこういうことかな?」という想像を超えてくるし、最後の伏線回収の畳みかけがすごい。 辛かった時期に、環と公輝がお互いにお互いを支え合っていたのだと分かったときは感動だった。 ・「僕、実は結構知ってるんです」 「何を?」 公輝がパソコンのキーを叩く音がリビング内に一定のリズムで響く。それを聞きながら、漫画を描くのはなかなかいい。 「これが長くは続かないだろうってこと」 原稿用紙の上に走らせていたペンを止める。顔を上げると、公輝は相変わらずパソコン画面を見つめたままだった。狩野を見ずに、流れるような口調で説明する。 「いいことも悪いことも、ずっとは続かないんです。いつか、終わりが来て、それが来ない場合には、きっと形が変容していく。悪いことがそうな分、その見返りとしていいことの方もそうでなければ摂理に反するし、何より続き続けることは、必ずしもいいことばかりではない。望むと望まざるとにかかわらず、絶対にそうなるんです。僕、結構知ってます」 画面から顔を上げ、手元は休まないままだったが、狩野に微笑み掛ける。 「僕は、ここの生活が好きですよ。とても楽しい。環に感謝しています」 後はまた黙々と仕事に戻った。 ・彼女の後ろ姿に向けて公輝が更に「スーのこと、聞きました」と言った。 環は足を止めないまま、「そっか」と呟く。何の感慨もない風に「仕方ないよね」と。 「ここは出て行くみたいね。私、正直、見直した。あの子、正義に依存せずに自分の足で歩こうとしてる」 「みたいですけど、僕はー」その時、狩野は自分が本音に忠実でなく、建前の言葉で状況を奥へ奥へと押し込んでいたに過ぎなかったことを思い知る。 公輝はきっぱりとこう言った。 「僕はただ、あの二人に付き合っていて欲しかったです。自立とか、依存とかはどうでもいいから、正義とスーに仲良くしてて欲しかった。スーにここにいて欲しかったです。わがまま、ですけど」環がはっとしたように姿勢を正し、公輝を振り返った。そして俯く。 狩野がそうだったように、環もまた、同じことを思ったのだろうか。こういうのは当事者だけの問題で、部外者には口を出す権利も感想を言う権利もない。けれど公輝がまっさらな本音を晒したことで、気持ちが途端に揺れ出していた。 ・「どうしてくれるんだよ。私、今夜これから出掛けるのに」 環の声は怒っていた。目が赤く充血し、腕の端から新しく涙が滲む。 「これ、すごくいい」 人が死んだり、派手な展開があったりするわけじや、何もないのに。ただ優しく、誰にでも読んでもらえるようにと、考えただけなのに。 「考えなくていいよ」と環が言った。 「前言撤回。さっきの編集者の言うことは信じなくていい。このまま、描いていけばいいよ。ー今回のこの話が通らなかったのは釈然としないけど、この道に沿っていけば、狩野はきっと、いつか絶対に認められる」 「環が何か読んで泣くなんて珍しいね」 スーが嬉しそうに言う。環は心底嫌そうに顔をしかめて、首を振った。「そりゃ、そうだよ。我ながら、不覚にも程がある」狩野に向き直る。 「私のこの反応はね、うんざりするくらい本心だよ。私、あんたたちの書いたもので絶対、泣きたくなんかなかったんだから」 流れ出した涙とマスカラを拭う、悔しそうな彼女を見た、その時だった。 狩野は、決意したのだ。とにかく、嬉しかった。 人を傷付けず、闇も覗き込まずに、相手を感動させ、心を揺さぶることは、きっとできる。そうやって生きていこう、自分の倍じる、優しい世界を完成させよう。それができないなら、自分の人生は失敗しているも同じなんだと、そう思ったのだ。 ・おいしいね、と呟き、変に思われても構わないからと、二人して一心不乱にフォークでそれを口に運んでいく。甘ったるいクリームを飲み込みながら、ふいに決定的な瞬間がやってきた。ぼろぼろと涙をこぼし、環は泣き出した。 おいしい。 こんなにおいしいものを、普段からずっと食べているチョダ・コーキという作家は、なんて自分とは違うのだろう。遠いのだろう。それを痛感して、自分自身が恥ずかしくて、環は泣き出した。どうしようもなくつらくなって、息が詰まった。もう、こらえきれなかった。 鼻が詰まって呼吸ができなくなり、ケーキも口の中で涙と混ざって暖かく歪む。そうなっても、環はそれを食べ続けた。嬉しいのか、悲しいのか。わからなかった。本当に、自分の気持ちがわからなかった。 突然激しく嗚咽し始めた環の前で、桃花は何も言わなかった。ただ、同じように泣きそうな顔をして、自分の横でそれを食べ続けてくれた。 何でこんなに遠いのだろう。どうしたら、この恥ずかしさや情けなさはなくなるんだろう。 そして、二人で丸々一個を食べ尽くしてしまったその時に、環は決心していたのだ。揺るぎなく、一生をかけてでも成し遂げたい目標が生まれた。 私は、彼に追いつきたい。 そして唐突な閃きのようにして、コウちゃんを巡るあのひどい事件があった時、嵐を鎮めたのが何だったのかを思い出したのだ。 護機で残酷、センセーショナルなあの惨劇の報道を打ち消して、世間の話題を攫った史上初の快挙。 日本人俳優が、米国のアカデミー賞主演男優賞を受賞したこと。あの俳優だって、それまではスキャンダルが相当あったのに、世間の目はそれを賛辞をもって迎えた。郷土愛に満ちて、それに執着する心が、きっとそうさせる。同じ日本人が、外国で功績を挙げた。そのことで。 私は、映画の脚本を書いてアカデミー賞を獲ろう。 単純に、そう思えた。 今日まで、支えがなければとても生きてこられなかった。そんなものが支えだなんて、それをどうかと思う人もいるだろう。けれど、それがあることがどれだけ幸せなことかを、環は知っている。 ああやって、「チョダ・コーキの小説のせいで人が死んだ悲劇」を嘆いて、責めた人たちを私は絶対に忘れない。その人たちの前で、オスカーを手にしながら言おう。 「私は、チョダ・コーキを読んで、それを支えに生きてきました」と。 思い返すと、あまりに短絡的で笑ってしまう考え。だけど、それは、今も赤羽環の支柱であり続ける。どれだけ無謀でも、これを無謀だと思ったが最後、自分は負けてしまう。これは、絶対に譲ってはならない、自分への楔なのだ。 ・怖かったけど、怖くてたまらなかったけど、気分がすこぶる良かった。たまらなく、気持ちがよかった。 冬の夜空に向けて、思いきり笑った。正面にオリオン座の三つの星が並んでいる。それを目指して、足を前に前に出していく。こんな間抜けな格好で、警官と追いかけっこ。ああ、本当にバカみたいでおかしい。 途中から、それは逃げるというより、ただ走るという行為にすり替わっていた。自分の後ろを追いかけてくる人間がいるのか否かも問題でなくなる。実際、本当に声が聞こえなくなった。諦めたのかもしれない。 目の前に上がる自分の息が、驚くほど真っ白だった。 無我夢中で走る途中、足がもつれて、公輝は前のめりにその場に崩れ落ちた。どこまで走ったのだろう。どれくらい、走ってきたのだろう。もう警官の姿は見えなかった。駅前の通りを外れた、閑静な住宅地。その一角にあった草だらけの空き地。倒れた公輝は、そのまま地面に寝転んだ。 こんなに走ったのは、久しぶりだった。逃げる途中、どこかで落としたのだろう。サンタの髭と帽子、が取れている。フリース素材の赤いコスチュームの中は、ずっと走ってきたせいで汗だくだった。頭がカンガンする。胸の鼓動は、いつまで経っても収まる気配がまるでなかった。もう、本当にばくばくと内側から鳴っている。 静かだった。 虫の声一つしない冬の夜の中で、自分の荒い息遣いの声だけが耳に届いていた。白い息が浮かび上がる。身体を枯れた草と霜に凍った土に包まれながら、こんな時でもまだ、公輝は気分がよかった。 空を眺めると、そこに、じられないくらい美しい光景が広がっていた。 月が出ていた。その黄色く明るい光を支点に、集が渦を巻き、ゆっくりと旋回していた。その動きが美しかった。その速度が緩やかであればあるほど、気持ちが研ぎ澄まされていく。 その光景を見ていた、その時だった。公輝に、決定的な瞬間がやってきた。それまでの気分の良さが嘘のように、どこかに吹きとぶ。 唇を噛み締める。 今日、環と会った。あの子から「ありがとう」と言われた。「私、ここのケーキ大好きなんです」と、泣きそうになった震えた声で。 ああ、僕はー。 僕はあの子が好きなんだ。 言葉にして一度思ってしまうと、ありとあらゆる感情の波が押し寄せてきて止まらなくなった。 喜びや嬉しさ、感動、やるせなさ、切なさ、苦しみ、悲しみ、それどころか、ありとあらゆることに対する、怒りの感情でさえも。どうしてか、全くわからなかった。 それを自覚してみて、ようやく決意できる。強い意志と覚悟を持って、彼女に呼び掛けることができる。 僕のことなんか全て忘れてしまうんだ、赤羽環ちゃん。 胸が、身体のあちこちが、ちぎれそうなほど痛んだ。鋭い痛みだった。目を閉じると、急に涙が溢れ出した。声を上げて、公輝は泣き出した。 チョダ・コーキはいつか、抜ける。 自分の話がそう言われていることを、公輝は知っている。 それは、青春のある一部分にだけ響く物語で、皆、自分のその時代が終わるとそこから卒業する。 年を取るとともに経験を獲得し、小説や漫画より現実が楽しくなり、そちらに惹きつけられていく人間を、これでは引き止めることがきっとできない。 その通りだ。この世の中には、楽しいことがたくさんある。人を好きになって、人から好かれて、対等に関係を結んで、友情とか、恋とか、愛とか名前をつけて、そこからたくさんの経験を学ぶ。獲得する。 それらを、環に知って欲しかった。けれど、公輝にはそれが教えられない。何一つ自分が持っていないから、どうやっていいかがわからない。 チョダ・コーキを、きっと君は忘れてそこから抜け出すことができる。 祈りのような強い気持ちで、繰り返し、心の底からそれを望む。
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