
阿久津隆
@akttkc
2026年3月17日

アブサロム、アブサロム 下 (講談社文芸文庫 フA 3)
ウィリアム・フォークナー
読んでる
しおりの挟まったところを開くが既視感があって、どこまで読んだっけ、と探す時間が6割、と思うが、そうやりながら再読をしていくことで浸透していくものがあるというか、初めて認識できることがたくさんある。日記を書きながら、引用する部分を読み返しているときとか、書き写しているときとかに、こんなことが書かれていたのか、と何度もなる。フォークナーはむしろ、フォークナーというかこの作品は、読み返したときに初めてつくられるような気すらする。初読でできるのは、うっすらとした、肌から浮かんで見える筋とか骨とかくらいで、もう一度読んでそこに血肉がつけられていくような、そんな感じがある。以下の箇所もきっと、そうなるのだろう。
p.37
あいつはおれにそれをいう機会さえ与えなかった、といい、それは考えというにはあまりにも素早く、あまりにも混乱しており、いわば一気に自分をどなりつけ、黒んぼの笑い声みたいに自分の上にどっと降りかかり、 あいつはおれにそれをいう機会さえ与えなかったし、とうちゃんはおれがあいつに話したかどうか聞きもしなかったのだから、あいつはとうちゃんがあいつのところになにかことづけを送ったことも知ることができず、だからあいつがそれを受け取ろうと受け取るまいと問題にはならず、とうちゃんにとっても問題にはならないだろう。おれはあのドアのところまで行ったんだが、あの黒んぼはおれに二度と表の戸口に来るんじゃないといっただけだから、おれはそれを伝えることであいつの役に立たなかったばかりか、それを伝えないことであいつに損害を与えることにもならず、つまりおれは、この世においてはあいつに対して役に立つことも損害を与えることもできないっていうわけだ。
やっぱり何が言われてるのかわからなかった。