

阿久津隆
@akttkc
本の読める店fuzkue代表。Reads開発。著書に『読書の日記』シリーズ、『本の読める場所を求めて』。趣味はサッカー観戦。オーブン焼きとお粥をよく食べます。
- 2026年5月25日
- 2026年5月21日
- 2026年5月17日
読んでる今度はキャスピーという青年が戦争について語っていて、この人は誰だろうと思いながら僕は話を聞き、家族たちは、「それで、どうしたんだ?」と食い入るように話を聞いた。 p.86,87 キャスピーはコーヒーを飲み干した。「おれはもう、白人の言うことなんてきかねえぞ、中尉だろうが、大尉だろうが、それとも憲兵だろうがよ。戦争は白人連中に、黒人なしじゃやってけねえことを見せてやったんだ。踏んづけて土まみれにしときながら、困ったことがおっぱじまると、「お願いしますよ、黒人のだんな。さあ、ラッパが鳴ってる方へお願いしますよ、黒人のだんな。おめえさまが国の救い主ですよ」ときたもんだ。けど、これから黒人は、戦争の恩恵とやらを受けることになるんだ。それも、すぐにだぜ」 「そうか」とサイモンはつぶやいた。 ここでいう戦争は第一次大戦で、これまでフォークナーはずっと南北戦争だったから、ずいぶん未来になってきたものだと思うし、なぜか、もっと古い話を聞かせてほしい、という気持ちにもなった。 - 2026年5月16日
- 2026年5月15日
読んでるp.56 月が東方の黒々とした丘陵の壁の彼方に出ており、谷間を穏やかに照らしていた。馬車道に沿って生えている樫やニセアカシアの木の向こうで、子供の風船のようにのぼっている。ベイヤードは月光の下、ベランダの手すりに足をのせて座っていた。葉巻がときおり赤く光った。すぐ近くの草むらからはコオロギの甲高い単調な鳴き声が聞こえ、遠く離れた木々のあいだからは若い蛙たちが妖精の笛のような音を、無数に湧きあがる銀色の泡のように出している。 ここを読んだ瞬間、たぶん「コオロギの甲高い単調な鳴き声」あたりの瞬間に、ぶわっと、大田原の、母方の実家の感じがやってきて、「うわっ」とびっくりした。小さなころは泊まりにいったときに寝るのは一階の奥の畳の部屋だったり、おばあちゃんの部屋だったりだったが、高校生とか大学生になって一人で行って泊まるときは二階のいとこがかつて使っていた部屋になったりして、その部屋は腰の高さのところに窓があって向こうが奥行きの狭いベランダが、そんなにそこに出た記憶はないけれど、あって、そこに出たら夜であれば空は月と星しか光はたぶんなくて、夜に出たことはないけれど玄関を出て庭があり、舗装が途切れるところからは畑になり、少し進めば竹林が壁になって高くまでそびえて、ぽっかりと空いた林の入り口から下り坂になって、下って林を抜けたら田んぼが広がっている。どこまでがうちの敷地なのかはわからないが、考えてみたら田んぼ側からは誰でも入ってくることはできるわけで、馴染みのない真っ黒の、静かな、あるいは虫と蛙の音で騒がしい夜のなかで、境界のない家というのはどこかで意識はされていただろう、だから不安だったということでもないけれど、特別な夜ではあったはずで、その感じが急にやってきてうろたえた。そのあと戦争から帰ってきた孫がハイテンションで不機嫌に話し続けて、「暴力とスピードと死の物語」が口から溢れ、何度注意されても声は高まって、抑えられない様子だった。「ジョニーのことを話しておくれ」とミス・ジェニーが話して、ジョニーというのはヤング・ベイヤードの兄弟とかっぽかった。戦死したっぽかった。 - 2026年5月14日
読んでるベイヤードの屋敷のところで犬が登場した。二匹だ。ベイヤードが馬車から降りるのを待って、それからベイヤードが馬に乗るのをおとなしく待った。 p.50 そうして彼らは、その生涯の暮れなずむ黄昏が、二つの生命を生み出した優しい大地の上で平和な終わりへと向かって近づいていくあいだ、季節ごとに変化する牧草地や野原や森林を静かに急がず歩いて、午後をともにすごすのだった―人間は馬に乗り、まだらのセッターはその隣に重々しくつき従いながら。若い犬の方は二歳にもなっておらず、彼らの落ち着いた社会に長く調子をあわせるには、本質的にあまりにもせっかちだった。ときには彼らと一緒に出発したり、どこかからやってきて野原の真ん中で彼らと一緒になり、はねをとばし気負い立って、走りまわったりもしたが、それは長くは続かなかった。すぐに舌を垂らし、尾をぴんと張って鋭く振り動かし、彼を猛り狂わせる捉えがたい匂いを追って走り去らずにはいられなくなる。世界はそうした匂いで彼をとり囲んでおり、ありとあらゆる藪や雑木林や峡谷から彼を誘惑するのだった。 ほっこり。フォークナーとは思えない穏やかな場面だ、と思ってから、そういえば僕は短編の「熊」をすごく面白く読んだような記憶があり、それがどんな話だったかは覚えていないけれど、実はフォークナーの描く動物が好きだったりもするのだろうか、と思ってから、短編まではいいかなと思っていたけれど、『熊 他三篇』も読んでもいいかもしれないし、短編がいいなら、『エミリーに薔薇を』も読みたい気持ちにもなってきたし、そう考えてみると、短編でフォークナーがどんなふうに小説を組み上げるのか、がぜん興味が湧いてくる感じがあった。 - 2026年5月12日
- 2026年5月11日
- 2026年5月10日
- 2026年5月10日
読み始めた昼寝のために布団に移動し、そこで『土にまみれた旗』を読み始めることにして、ずうっと文庫本を読んでいたので、どでかい単行本はどでかく、重く、だから持ち上げることはなく、開いた。 p.10 いつものように、フォールズ老人はジョン・サートリスをその部屋に連れこんだ。郡の救貧農場から三マイルの道を歩き、ある匂い―彼の色あせたオーバーオールにしみついた、汚れてはいないが埃っぽい匂い―のように、死者の霊をその息子が座っている部屋に連れてきたのだ。そこで彼ら二人、つまり生活保護者と銀行家は、死をこえて戻ってきた男と一緒に半時間ほど腰をおろしていた。 魅力的な始まり! 『アブサロム、アブサロム!』のクェンティンとミス・ローザがミス・ローザの家で対峙する始まりと似ている感じもあって、それにしてもあのクェンティンは、ただ無垢な、空っぽの空洞だと思っていたクェンティンが、そんな存在だったとは、と『響きと怒り』を経て思うというか、もうその名前が響かせるものがまったく変わった。 その段落だけ読んで昼寝を始めた。 - 2026年5月9日
響きと怒りウィリアム・フォークナー読み終わったつけたしが続いていて、ノリノリだなあフォークナー、と思う。「ジェイソン四世」の番で、始まると、「コンプソン家の人の中で最初の正気な人間であり、(子供のない独身者なので)最後の正気なコンプソンということになる」とあって、なんというか、ほら! という思いというか、ジェイソンの語りを読みながら、ジェイソンは箍が外れていない、まっとうだ、それゆえに退屈だ、と思っていたことが、作者もそう言ってくれたことで、何か正解を言い当てたようなそういう得意な気持ちになって、みっともない生徒根性というのはいつだって簡単に顔を出すものだ。 - 2026年5月9日
響きと怒りウィリアム・フォークナー読んでるつけたしの続きをしばらく読んで、「クェンティン三世」でやっと今作の登場人物たちになった。「彼は妹の肉体を愛したのではなくて、ちょうど広大な地球全体の小型の模型が訓練されたあざらしの鼻の上にのせられるように、コンプソン家の名誉が妹の処女性の微妙でこわれやすい薄膜によってあぶなっかしく、(彼もよく知っていたのだが)ほんの一時的にささえられているという考え方を愛したのだった」とあって、なんともまあという愛し方だった。 p.569,570 彼は自分が犯したいとは思わなかった近親相姦の考えを愛したのではなくて、その罪に課せられる永遠の罰という長老教会派の考えを愛したのだった。すなわち、神ではなくて、彼自身が、近親相姦という罪によって、自分自身と妹を地獄に投げ込み、そこで彼は永遠に燃える火にかこまれながら妹をいつまでも守り、いつまでもそのままの姿で保つことができるという考えを愛したのだった。しかし彼は、なににも増して死を愛したのであり、ただ死だけを愛し、恋する男が愛する相手の待ちわび、望んでいる、好意的で、やさしく、信じられないような肉体を愛しながらも、故意にそれをさけようとするように、死を慎重にほとんど倒錯的に予想しながら、愛し生活したのであり、ついにそれをさけることではなくて自分を抑えることに耐えきれなくなり、自分の身を投げ出して、自らを棄て、溺れさせた。 - 2026年5月9日
考える技術・書く技術新版バーバラ・ミント,山崎康司気になる - 2026年5月8日
響きと怒りウィリアム・フォークナー読んでるラスターが馬車でベンジーを連れ出した。馬車は広場について、そこには南軍兵士の記念像があった。 p.557 一瞬のあいだ、ベンはまったく茫然として坐っていた。と、彼がわめき出した。わめきわめき、その声はほとんど息つくひまもないようにして高まっていった。その声には驚き以上のものが感ぜられた。恐怖であり、衝撃であり、盲目的な、口にはいえない苦悶であり、ただの響きにすぎなかった。そしてラスターの眼は、その瞬間、ぎょろっとひっくり返って白眼になった。「ああ、よわっただ」と彼はいった。「黙るだ! 黙るだ! よわったなあ!」彼はくるっと向き直って、クイニーに鞭をくれた。鞭が折れたのでそれを捨て、信じられないほどの高さに高まっていくベンジーの声をききながら、ラスターは手綱のはしをつかんで前にかがみこんだが、その時ジェイソンが広場を横切って飛んできて、馬車のステップに足をかけた。 ジェイソンがラスターをぶん殴り、馬車を奪還し、そして小説が終わり、ふーっと息をついて、解説とかが始まるのかと思って左ページに目を移すと「つけたし」とあり、「つけたし?」と思って説明を読むとマルカム・カウリーが1946年に編んだ『ポータブル・フォークナー』のためにフォークナーが寄せた補足的解説ということで、「コンプソン家 一六九九―一九四五」とあって、一六九九w 遡るなあ!www と思って、最初は「イッケモチュッベ」さんの紹介から始まった。 - 2026年5月8日
買った@ 本屋B&B海外文学のほうに行ってラテンアメリカ文学のところをチェックし、それからアメリカ文学のところに寄っていき、フォークナーを探した。『八月の光』があり『野生の棕櫚』があり、それから『エミリーに薔薇を』があってこれは『野生の棕櫚』と同じ中央公論新社の薄紫の文庫で、短編集とあった。その横に大きなハードカバーがあって『土にまみれた旗』とあり、どでかいハードカバーで、黒と赤の矩形とおびただしい文字で構成されたかっこいい装丁で、長編のようだった、知らないタイトルで、スマホを出して調べてみると『サートリス』は縮約版で、その完全版がこれということらしかった。『サートリス』はタイトルは知っていた。それでウィキペディアを見ているわけだが、フォークナーの作品年表を見ると『サートリス』が1929年の刊行で『響きと怒り』も1929年の刊行で、このどでかい本とあのどでかい本を同じ年に出しているというのはいったいどういうことなんだと慄き、ともあれフォークナー熱は止まらないのでワンモアフォークナー。 - 2026年5月8日
鉄の胡蝶は保坂和志買った@ 本屋B&BなんとなくB&Bで買おうと思っていたのでB&Bに行ったので買った! まだしばらくフォークナーなので読むのは先になりそうだけど、13年待ったんだから、何ヶ月か寝かせたところでというところで。 - 2026年5月6日
響きと怒りウィリアム・フォークナー読んでるそろそろ終わりそうで、今にも終わるのではないかと思うと早くも寂しく、これまでの章とは異なってカメラはひとつの人物に固定されずに、ディルシーに据えたと思ったらジェイソンに移ったりもして、これまでにはないサスペンスが生み出されている。これ、どうなっちゃうんだろう、と思うし、キャディの語りパートも見たかった、という思いもあるようだ。ジェイソンがぶん殴られていた。 - 2026年5月6日
響きと怒りウィリアム・フォークナー読んでる途中で目が覚めてしまい、床から本を拾うとコンプソン夫人とディルシーが話していた。 p.522 「そんな馬鹿な」とコンプソン夫人はいった。「それは血統なんだよ。あの叔父にしてこの姪ありだよ。それともあの母にしてこの娘ありさ。あたしにゃあ、あの二人のどっちに似る方がいいのか悪いのか、わからないよ。もうどっちでもいいと思うよ」 「なんであんたは、そんなふうな話し方をするだね?」とディルシーはいった。「なんのために、あの子がそんなことをしたがるっていうだね?」 「あたしにゃあわからないよ。死んだクェンティンはなんのためにあんなことをしたんだろう? いったい、どんな理由があったんだろう? ただあたしを馬鹿にして傷つけるために、あんなことをしたとは思えないよ。神様だって、あんなことは決してお許しにならないと思うよ。あたしは貴婦人です。お前は、あたしの子供たちの行状から見て、そうは思わないかも知れないけれど、でもあたしは貴婦人なんだよ」 いやーすごい。 - 2026年5月5日
響きと怒りウィリアム・フォークナー3時半ごろ布団に入り、思うようにすぐには眠くならず、小説は進んでいき、クェンティンの姿がない、部屋が静か過ぎる、ジェイソンが何かに勘づく、「鍵をください」と母に言い、「鍵ですよ」と母に言い、「さあ鍵を出してください」と母に言い、「鍵をくれってば、この間抜けばばあ!」と母に言った。 やっと眠くなったので閉じて寝ようとして、実際うとうとしていたが、頭がずっと表面に残っている感じで、遊ちゃんが、フランフランじゃなくて、と笑って、イランイランとフランキンセンスだよ、面白いね、とはっきりとした話し方で言って、そこで目が覚めて、眠気が近くにはなく、なので再び明かりをつけて読書に戻り、ジェイソンは破滅みたいなものに向かっていて、クェンティンは遠くに向かっていて、家に残されたベンジーはディルシーたちに連れられて黒人教会に行って、今日はゲスト牧師の日だった。入ってきたゲスト牧師はしかし頼りなさそうな、期待外れの風貌だった。しかし「兄弟姉妹よ!」と声を出すと空気が一変して、彼の声はホルンのように鳴り響いた。「おらは神の子羊の思い出と血を持っているだ!」 p.515 「長い、冷たいいく年かが―なあ、いいですだか、兄弟たちよ、長い冷たいいく年かがすぎるとき―おらにはその光が見えるだし、その言葉が聞こえるだ。哀れな罪人たちよ! あれらのゆり動く戦車はエジプトで消えうせただ。そして多くの年月がすぎていっただ。かつて金のあった者どもも今はどこにいるだ? なあ兄弟よ。かつては貧しかった者も今はどこにいるだ? なあ姉妹たちよ! おお、よく聞くがいいだ。もしお前らが古き救いの乳と露にあずからなければ、長い、冷たいいく年かがすぎていくとき、どうなると思うだ!」 「はい、イエス様!」 教会は熱狂していき、「うーーーーん!」という蜂の羽音のような低い音が轟き、「イエス様! イエス様!」とトランスしていった。 終わるとディルシーは涙を流して歩きながら、「おらは、最初とそして最後を見ただ」と言って、「おらは、初めを見ただし、そして今終わりが見えるだ」と言った。 - 2026年5月4日
響きと怒りウィリアム・フォークナー読んでるキャディの章が始まる。「冷えびえとした物悲しい夜明けだった」と始まるその章は、その行からこのページの終わりまで、青いボールペンの線が行頭に蓋をするように引かれていて、「そしてディルシーが小屋のドアをあけて外に現われたとき」というところも線が引かれている。次のページを開くと蓋の線はずうっと続いて、「ついに彼女はうしろを向いて、ふたたび家の中にはいってドアを閉めた」に線が引かれ、小屋のドアが開いてディルシーがふたたび現われたが」にも線が引かれ、蓋の線はそこでおしまいになって、フレーズに引かれる線はまだいくつかあって、「いっ時してから、彼女はこん度は開いた雨傘を持って現われ」に引かれ、それから「傘をたたむと、入り口のすぐ隅のところにそれを立てかけた。彼女は薪のストーヴのうしろの箱の中へどっとおろした」には線と併せて「カメラが切り替わる」というメモもあって、大学生のとき、何かしらの真面目さや律儀さを持って小説を読んでいたのだなあと思う。ところでキャディの章だとばかり思っていたら、ディルシーの章だった!
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