久保みのり|書店よむにわ "そいつはほんとに敵なのか" 2026年4月2日

そいつはほんとに敵なのか
先日のこと。イベントに持っていく本を箱に詰めたら、かなりの大荷物になってしまった。見かねた義母が車で会場まで送ってくれた。いつも、こうして助けられている。 だが、車中でガソリン価格の話から、政治の話題に及んだとき。私が現政権への批判を口にすると、思いがけない言葉が返ってきた。 「このままじゃ中国と韓国に日本が乗っ取られるから。ビシッと物を言える人が必要なのよ。高市さんは本当に頑張ってる」 一瞬で、頭に血が上った。 「何を根拠に」「その支持が、あなたが愛する子や孫の未来をどう変えるか分かっているのか」……喉元まで出かかった言葉を飲み込む。無知を糾弾し、排外思想で瞬間気持ちよくなっても日々の不満は改善されないと正論を突きつけたい。私の凶暴性が身体に満ち満ちた。 けれど結局口から出たのは「中国や韓国は嫌なのに、アメリカに都合よく使われるのは問題ないんですか」という、精一杯抑え込んだトーンの反論だけ。義母は「それは嫌やけど……」と口ごもり、会話は途絶えた。 *** ——義母は、紛れもなく「善い人」だ。 産後、心身ともにボロボロだった私に「お疲れ様」と一番欲しい言葉をくれたのは彼女だった。娘の夜泣きに心が折れそうになったとき、真っ先に抱っこを代わってくれた、とても温かい人なんだ。 それなのに。同じ人の口から「中国や韓国に日本が支配される」とか「外国人を優遇しすぎ」といった排外的な言葉が漏れてくる。とても辛い。 だから私はこの本を読み、そこにある言葉を噛み締めた。 「どんな場所だって、「誰の場所でもない」と心のどこかで思っていたほうが、じつは健全で、風通しよくいられるんじゃないだろうか。」p.70 境界線を引いて「ここは自分たちの場所だ」と固執することは、人を頑なにする。義母を突き動かしているのは、大切な居場所を奪われることへの「恐怖」なのかもしれない。そして、そんな義母に怯える私自身も<いま・ここ>に固執しているのかもしれない。 とはいえ、政治的選択の根っこに差別があるのだとしたら許容できない。「加害と被害」の歴史から目を背け被害者のふりをして迫害をしてはいけないし、その認識や態度を次世代に繋いでいく責任がある。これだけは、絶対に譲れない。 けれど、ほんとのほんとに、義母は「敵」なんだろうか。 碇さんは安易な和解を勧めているわけじゃない。相容れない他者と隣り合わせで生きる「居心地の悪さ」は「もっと濃密なコミュニケーションを取りたい」という欲求の裏返しなのかも——というように、凝り固まった思考をほぐしてくれる。 だから、私だって何かに“乗っかっている”だけかもしれないと思えた。義母に確固たる思想があるのかはわからない。義母だって、実体のない不安から“乗っかっている”だけなのかもしれない。 「「わからない」という共通認識からふたりの関係を始めることができるなら、わたしはその希望に賭けたいと思った」p.112 幸いなことに、私は義母が「善い人」であることはわかっている。だから、排外的な発言が「わからない」ということだ。この「わからない」宙吊り状態のまま、彼女の隣に座り続けてみようと思う。コミュニケーションを取り続けてみようと思う。 「サナ活していること」を記号的に受け止めて一個人を忌み嫌う——これも一つの排外的態度だから。連帯と排斥のあいだにも何かあるはず。 正論で誰かを叩きのめしたくなったとき。あるいは、身近な誰かとの分断に絶望しそうになったとき。この本は、あなたが振り上げた拳を、そっと下ろしてくれるにちがいない。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved