
仲西森奈
@mit_valentin
2026年4月3日
日記をつけて何になる?
蟹の親子
読み終わった
"小説の登場人物の不安に共感することはあっても、それは作者によって設計された感情です"
p.187
そうだろうか。そうだっただろうか。そうなのか。とここで立ち止まった。本書ではこのくだりで日記の「未来を知らない不安」という特徴について述べられている。それはたしかにそう。けれど小説は、そうか。小説は。
ある一定の物書きは、小説においても「未来を知らない不安」を抱き書いているのではないかな、と思った。しかしそれはあくまで初稿を書いているときの話なのかもしれない。(書き手本人以外の)読み手へパッケージとして作品が受け渡されるときにはすでにその不安は消え、"設計された感情"になっている、ということなのだろうか。そんな気もするし、そうだろうかという気もする。なんにせよ、わたしが日記下手(と自認している)である理由がなんとなく掴めたような気がする。記録と制作/創作。本書を読みながら頭の中にあったのは「これは小説の創作論としても読めるのではないか(というかまさしくそうなのでは)」という思いで、それはわたしが記録するように日記以外を書いているから、なのかもしれない。そして「このようにして日記へ人を手招きできるのなら、小説(を書くこと)へ人を手招きすることもできるな」とポジティブに思った。まとまらないけれど、そんな感じ。











蟹の親子
@kani_oya
読んでくださり、ありがとうございます!
とくに反応してくださった箇所、切り詰めた書き方になっているのですが、基本的に日記と小説は対立項というより両者とも「不確実性との距離」のグラデーションの中にあるものだと思っています。
小説の創作論として読んでいただくのは畏れ多いですが、日記について考えることが創作について考えることにも繋がっていることは本書を通じて届けたかったことのひとつなので、ひろっていただけて嬉しく思います。



仲西森奈
@mit_valentin
こちらこそ、応答ありがとうございます。「不確実性との距離」のグラデーション、たしかにそうかもしれませんね。
かつて福永信『アクロバット前夜』に保坂和志が「小説の夢見た〈自由〉がここにある」という帯文を寄せていましたが、「小説の夢見た〈自由〉」というものがほんとうにあるとして、それはもしかしたら「日記」という形ですでに世に現れているのではないかな……とここ最近考えていたところにこの本が刊行され、その気持ちもあって「小説の創作論としても読めるな……」という印象を抱いたのかもしれません。そんなあれこれをさっ引いたとしても、いま読めてよかったな、と思いました。

