
カミーノアン
@kaminoan3699
2026年4月3日
慣れろ、おちょくれ、踏み外せ --性と身体をめぐるクィアな対話
森山至貴,
能町みね子
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再読したい本
本書は、「クィア」という言葉の持つ射程の広さと曖昧さを受け止めようとする対話である。「LGBT」という分類すら相対化しようとする姿勢の中には、もともと侮蔑語であったこの言葉が、既存の枠組みに回収されないあり方を示すものへと転じてきた歴史が背景にある。
「クィア」は、正常/異常といった境界が自明であるという前提そのものに疑問を投げかける概念であり、「普通」を揺さぶる視点でもある。その軽やかさと批評性は、単に多様性を称揚する言葉とは異なる広がりを持っている。
多様なあり方を「理解する」難しさも繰り返しが語られる。他者を理解しようと努めることは重要だが、それをカテゴリーに回収し、「わかった」と思ってしまうことには暴力性が伴う。ここでは、理解しようとし続けながらも、理解しきれなさを手放さないという立ち位置が示される。カテゴリーは入り口として必要だが、それに安住しない姿勢が求められている。
能町さんが「自分についてトランスという言葉すら口にしたくない」と語るのも印象的だ。自分の生の結果として現在のあり方があり、既存の枠組みに自らを当てはめにいったわけではない。この違和感は、外側から与えられるカテゴリーと当事者の実感とのズレを鮮明に示している。
また、「トランス女性は女性である」という言明の必要性も語られる。粗雑な配慮や曖昧な理解は、かえって相手を傷つける可能性がある。単に「いろんな人がいる」と言って思考を止めるのではなく、具体的な文脈の中で考え続けることが求められる。
さらに、セクシュアル・マイノリティの運動で重視されてきた「可視化」の意義にも言及される。「そこにいるべきでないとされる人がそこにいる」ことを示す行為は、反発を招きながらも社会に問いを投げかける契機となってきた。
「We’re here, We’re queer. Get used to it.」という言葉に象徴されるように、本書の語りは「理解」や「受容」を超えた地点にある。ただ存在しているという事実に対して、過剰な意味づけを求めるのではなく、そのまま受け止めることを迫る強さがある。
対話は一つの結論に収束するのではなく、単純化されそうになる議論を何度も崩し、「そんなに簡単ではない」と差し戻し続ける。この往復運動についていくこと自体が、この本の読書体験だった。
終盤で語られる「不愉快であること」すら手放さないという姿勢も印象に残る。不快さや違和感は排除されるべきものではなく、その人のあり方を形づくる重要な要素でもある。そこに他者が安易に介入することの危うさが示されていた。
「みんな」のためと言いながら、「みんな」であることを拒むような矛盾。その不安定さを無理に解消せず、抱えたままにしておくこと。そうした態度の中にこそ、変化の可能性があるのだと示唆されているように思う。
この本は毎年、あるいは定期的に読み返し、自分の理解がどこまで追いついているか、あるいは後退していないかを確かめていきたいと思った。









