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カミーノアン
カミーノアン
@kaminoan3699
  • 2026年4月8日
  • 2026年4月8日
    私的読食録
    私的読食録
  • 2026年4月5日
    YABUNONAKA-ヤブノナカー
  • 2026年4月4日
    満月が欠けている
    本書では、「生きること」と「生きのびること」のあいだにあるズレが、切実な体験を通して語られる。緑内障によって視力を失うかもしれないという現実に直面したとき、物欲や読書への意欲が薄れていくという変化は、人間の欲望が生きる意欲と強く結びついていることを示している。これまで自分を支えていたものの意味が揺らいでいく感覚には、強いリアリティがある。 また、「死の大海の上にかろうじて浮かんでいる木切れとしての生」という比喩が印象に残る。私たちが通常考えるような「生が常態で死が例外」という捉え方とは逆に、生こそが不安定で例外的な状態であるという認識が提示される。日常の延長にあると思っている時間の脆さが、鮮明なイメージとして立ち上がる。 とりわけ興味深いのは、「生きのびる」と「生きる」の区別である。健康やお金といった「なくては困るもの」に資源を割き続ける状態が「生きのびる」であり、それは生きるための前提でありながら、いつの間にか目的そのものへとすり替わってしまう。一方で「生きる」とは、理由をうまく言語化できないような衝動に従うことでもある。多くの人が最期に後悔するのは「生きのびる」に偏りすぎた時間の使い方だという指摘は、強く心に残った。 はたして、自分の中で「生きる」に該当するものはどれくらいあるのだろうと、ふと問われた気がした。 「生きる」とは、外的な条件を満たすことではなく、自分の内側から湧き上がるものにどれだけ応答できるかという問題なのかもしれない。その意味で本書は、限られた時間の中で何に重心を置くのかを静かに問い直してくる一冊だった。
  • 2026年4月4日
    斜め45度の処世術
  • 2026年4月3日
    慣れろ、おちょくれ、踏み外せ --性と身体をめぐるクィアな対話
    本書は、「クィア」という言葉の持つ射程の広さと曖昧さを受け止めようとする対話である。「LGBT」という分類すら相対化しようとする姿勢の中には、もともと侮蔑語であったこの言葉が、既存の枠組みに回収されないあり方を示すものへと転じてきた歴史が背景にある。 「クィア」は、正常/異常といった境界が自明であるという前提そのものに疑問を投げかける概念であり、「普通」を揺さぶる視点でもある。その軽やかさと批評性は、単に多様性を称揚する言葉とは異なる広がりを持っている。 多様なあり方を「理解する」難しさも繰り返しが語られる。他者を理解しようと努めることは重要だが、それをカテゴリーに回収し、「わかった」と思ってしまうことには暴力性が伴う。ここでは、理解しようとし続けながらも、理解しきれなさを手放さないという立ち位置が示される。カテゴリーは入り口として必要だが、それに安住しない姿勢が求められている。 能町さんが「自分についてトランスという言葉すら口にしたくない」と語るのも印象的だ。自分の生の結果として現在のあり方があり、既存の枠組みに自らを当てはめにいったわけではない。この違和感は、外側から与えられるカテゴリーと当事者の実感とのズレを鮮明に示している。 また、「トランス女性は女性である」という言明の必要性も語られる。粗雑な配慮や曖昧な理解は、かえって相手を傷つける可能性がある。単に「いろんな人がいる」と言って思考を止めるのではなく、具体的な文脈の中で考え続けることが求められる。 さらに、セクシュアル・マイノリティの運動で重視されてきた「可視化」の意義にも言及される。「そこにいるべきでないとされる人がそこにいる」ことを示す行為は、反発を招きながらも社会に問いを投げかける契機となってきた。 「We’re here, We’re queer. Get used to it.」という言葉に象徴されるように、本書の語りは「理解」や「受容」を超えた地点にある。ただ存在しているという事実に対して、過剰な意味づけを求めるのではなく、そのまま受け止めることを迫る強さがある。 対話は一つの結論に収束するのではなく、単純化されそうになる議論を何度も崩し、「そんなに簡単ではない」と差し戻し続ける。この往復運動についていくこと自体が、この本の読書体験だった。 終盤で語られる「不愉快であること」すら手放さないという姿勢も印象に残る。不快さや違和感は排除されるべきものではなく、その人のあり方を形づくる重要な要素でもある。そこに他者が安易に介入することの危うさが示されていた。 「みんな」のためと言いながら、「みんな」であることを拒むような矛盾。その不安定さを無理に解消せず、抱えたままにしておくこと。そうした態度の中にこそ、変化の可能性があるのだと示唆されているように思う。 この本は毎年、あるいは定期的に読み返し、自分の理解がどこまで追いついているか、あるいは後退していないかを確かめていきたいと思った。
  • 2026年4月3日
    九条の大罪(16)
  • 2026年4月2日
    「気が利く」とはどういうことか ――対人関係の心理学 (ちくま新書)
    本書は、「気が利く」という行為を、単なるスキルや気配りではなく、他者との関係の中で立ち上がる心の働きとして捉え直す。気が利くことは特別な能力のように扱われがちだが、実際には人との関わりに深く関わる本質的な要素だと説く。 「気が利く」とは、自分の基準で他者を推し量ることでは成立しない。多様な感じ方を前提にしなければ、たとえ善意でも「余計なお世話」になりうる。不適切な配慮は、相手の自尊心を損ない、無力感を強めることさえある。 一方で、「気が利く」行為が自己満足に陥る危険にも触れられている。自分がどう見られるかを優先した行動は、配慮ではなく自己満足に変わり、かえって場の関係を損ねる。 また、「気が利くためには自分を押し殺すもの」というイメージも、本書は覆す。重要なのは、他者に寄りかかりすぎず、自分本位にもならない、そのあいだのバランスだ。この視点は、「気が利く」という行為をより現実的で持続的なものとして捉え直すきっかけになった。 本書が示すのは、「気が利く人になる」方法ではなく、他者への関心と配慮を軸にした関係のあり方である。それに過度に縛られず、かといって軽視もしない。その中間にこそ、人が無理なく他者と関わり、生きやすさを感じられる余地があるのだと感じた。
  • 2026年3月30日
  • 2026年3月30日
    物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために
    本書は、「物語」が本来もつ力を前提にしながらも、その力がいかに危うく作用しうるかを問い直す。わかりやすさや納得感を与える物語は、複雑な現実を単純化し、人々の判断を容易に誘導してしまう。近年、広告や選挙で内容よりも「物語」が前面に出る状況に、確かに違和感を覚える。 とりわけ印象に残るのは、「物語的不正義」という概念である。人は他者の人生に勝手に因果関係を与え、筋の通った物語として理解しようとする。しかしその行為は、相手が自分自身を解釈する自由を奪い、一つの物語に閉じ込めてしまう危うさをはらむ。過去の出来事を他者に意味づけられることの息苦しさが、ここで見事に言語化されているように感じた。 本書が提示するのは、「理解できないものを無理に理解しようとしない」という態度である。物語に回収できない断片を断片のまま受け入れること。不確かさや曖昧さに耐える姿勢こそが、新しい倫理として求められているのだろう。読みながら、自分自身も日常の中で「わかったつもり」になって他者を解釈してしまう瞬間があったことを思い出し、胸が少し痛んだ。 また、資本主義や社会制度への視点も刺激的だ。ゲーム的な楽しさや「プレイ」が批判を吸収し、無力化する装置として機能しているという指摘にははっとさせられた。短期的な利益や効率にとらわれるのではなく、多様な立場を踏まえて、より良いルールを模索し続ける必要があるという主張には深い説得力がある。 読み終えて感じたのは、思考の広がりとともに、絶えず「物語」に回収されないものを問い続ける誠実さだ。物語から少し距離を取ることで、かえって他者を尊重できる場合もある。そのときに生まれるわずかな戸惑いや親密さを、あらためて見つめ直したくなる一冊だった。
  • 2026年3月29日
    どうすればよかったか?
    本書を通して感じるのは、出来事のあともなお続く「どうすればよかったのか」という問いの重さだ。著者は姉の死後も、家族に何が起きていたのかを考え続け、悔やみ続けている。その記憶は時間とともに揺らぎ、変化していくが、映像として残された言葉や表情が、当時の現実を確かに引き留めている。 印象的だったのは、「問題は、それが存在するという認識がなければ解決されない」という指摘である。姉の異変に対して見て見ぬふりをした両親。その姿に絶望しながらも、著者自身もまた別の形で距離を取ってしまったことへの悔いがにじむ。問題は、認識しなければ存在しないのと同じで、認識してもなお向き合うには勇気がいる。そのどちらも欠けたとき、時間だけが過ぎていくのだと痛感させられた。 母が「青春がなかったですね」と漏らし、父がそれを制止する場面も強く印象に残った。何気ないやりとりのようでいて、姉の人生に対する認識のずれや、受け止めきれない思いが浮かび上がる。その言葉は、著者の中に長く残る違和感となり、家族それぞれが異なる現実を生きていたことを示しているように感じた。 それでも著者は後年、「姉ともっと会話ができるようになりたい」という思いから、改めて向き合うことを選ぶ。その動機は純粋で、過去にできなかったことを取り戻そうとする切実さがある。遅れてでも関係を結び直そうとする意志が、この作品全体を支えている。 一方で、父の態度には複雑な感情を抱かされた。姉の状態や死の事実を受け止めきれず、自分の中で書き換えてしまう。その姿は理想を押し付けているようにも見え、違和感や怒りを覚える一方で、人間が最後には自分を守ろうとする存在であることも思い知らされる。著者はその矛盾を暴こうとはせず、問い詰めることにも意味はないと判断し、ただ記録する。その言葉の奥にある表情や沈黙、弱さまでも映し出そうとする姿勢に、ドキュメンタリーとしての誠実さと強さを感じた。 読み終えて、「どうすればよかったのか」という問いには答えがないのだと改めて思う。それでもなお問い続け、考え続けることこそが、この作品の核心なのだろう。
  • 2026年3月27日
    センスの哲学
    センスの哲学
  • 2026年3月26日
    幸せな結末 大滝詠一ができるまで
    「迷ったときは墓参り」という言葉に象徴されるように、大滝詠一の思考は常に原点へと立ち返りながら、そこから未来を見据えている。過去に埋没するのではなく、時間軸を横断して現在の表現へと接続していく姿勢が印象的だった。戦前から現代までのカルチャーを横断的に捉え、それを音楽として提示できる存在は、きわめて稀だと感じる。 また、「作品はその都度のアリバイ証明にすぎない」という言葉からは、彼の創作姿勢の独自性が伝わってくる。リスナーに届けるためでも、評価されるためでもなく、その時点での自分の思考やアイデアを『記録する』。ソングライティングが徹底して実験と記録に根ざしている点は、非常に興味深い。 さらに、「高まっているものっていうのは時間が占拠される」という感覚も示唆的だ。誰かに理解されるためではなく、あくまで自分の内側の高まりに従う。その姿勢は、発信や評価を前提とする現在の環境とは対照的に映る。 読みながら感じたのは、「精神的に自由であること」の強さだ。好きなことに没頭し、浮かんだアイデアを形にして残していく。その膨大な記録は、後から自分自身を発見するための手がかりにもなるのだろう。原点に立ち返りながら未来へ進むという循環が、彼の創作を支えていたのだと思う。 大滝詠一とは、自らの過去を参照し続けることで、自由に現在を更新し続けた存在だったのではないか。
  • 2026年3月24日
    障害者の居場所
  • 2026年3月24日
    平和と愚かさ
  • 2026年3月23日
    方舟を燃やす
    方舟を燃やす
  • 2026年3月23日
    宮台式人類学
    宮台式人類学
  • 2026年3月22日
  • 2026年3月22日
  • 2026年3月22日
    漁港の肉子ちゃん
    喜久子と肉子ちゃんの関係を通して、「誰かを思うこと」が人をどう変えていくのかを描き出している。 喜久子の「何かを決めたくない」という感覚は、「誰にも迷惑をかけたくない」という思いから生まれているように感じる。その根底には、「自分は望まれて生まれてきた子ではない」という自意識があり、だからこそ肉子ちゃんへの感謝と遠慮が入り混じり、自分の感情にふたをしてしまう。その結果、自分が何を思っているのかさえ分からなくなり、向き合うことから逃げる癖がついてしまっている。 そんな喜久子に向けられる、「生きてる限りはな、迷惑かけるんがん、びびってちゃだめら。」という言葉が、この物語の中心にあるように思えた。人はみなそれぞれで、完璧な大人などいない。だからこそ、恥をかき、迷惑をかけながら生きていくしかない。その過程で、人は他者に頼ることを覚えていくのだと思う。 そして、その延長線上にあるのが「家族」という関係なのだろう。血のつながりではなく、互いに関わり合い、時にぶつかりながらも関係を引き受けていくことで生まれるもの。孤独が問題視される現代に対して、この物語は一つの温かな「あり方」を提示しているように感じた。 また、西加奈子さんの描く感情の立ち上がり方にも強く惹かれる。出来事の最中ではなく、あとからふと思い出した瞬間に、言葉にならない大きなものに圧倒されるように感情があふれてくる。その『遅れてやってくる実感』こそが、その人にとっての本当の感情なのだと思わされる。 読み終えて、人と生きることの不器用さと、それでも関わり続けることのあたたかさが静かに心に残った。
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