
浮舟
@ukibune_1991
2026年4月6日
堕落論・日本文化私観 他二十二篇
坂口安吾
感想
堕落論だけ解釈(長すぎるため)
まず堕落の前提として人間は必然的に堕落する生物である。堕落とは軍人が闇屋に堕ちたり、妻が死んだ夫を悲しむが半年後には新たな夫を探すというような事である。つまり栄光、誇り、演出、正しさなどの虚構は剥がれ落ちるものであり、その先にある醜く生きる事を堕落と定義する。
それら虚構は人間の弱さ、醜さなどを隠す為、あるいは精神的な支柱として作られた人為的システムであり、それは本来の人間的本能を抑圧する事に繋がる非人間的的、反人的システムである。また、そのシステムは永続的ではない束の間の幻影である。
*本来の人間とは
虚構から脱落した先にある人間であり、自己を虚飾、抑圧する事なく、見栄を張らず、全てを曝け出し現実と事実の中でありのまま生きる人間と定義する。
また、人間は脆弱だからこそ堕ちぬくには弱すぎる。その為、正しく堕ちる必要がある。
と本書に書かれているが、それは受動的堕落である為、精神の衰弱、虚脱を残す可能性がある。
従って正しい堕落とは、自己が能動的に世の中の虚構を破壊しながら縋る事をやめていき、自己が堕ちる事を見つめ、受け入れ、曝け出し、認める事である。
その先に自己の発見がある。
また、自己の発見と自己の武士道、天皇制という名の規律を創り上げる事で救済される。
しかし、自己が創り上げた武士道、天皇制も同じく弱さと醜さを隠す虚構となる可能性が存在している為、自己が創造した武士道、天皇制も破壊しなければならない時が来る。
つまり、自ら世の中の虚構を暴き、能動的に堕落し、自己を発見し、自己の武士道、天皇制を作り、自己の虚構を暴き、自己を発見し、世の中の虚構を暴き。というループを絶えず繰り返し、真実の中に身を置く事にある。
*受け入れる、曝け出す、認めるとは。
自己が行った堕落を虚飾せず、肯定も否定もせず、極めて写実的に認識して感情で受け入れ認める事である。それはただ自分はこういうものだった。という事実の認知である。
つまり堕落論における救いとは、他者と自己の虚構を暴き、自らの発見と創造を絶えず繰り返していく運動であり、その状態に救いがある。それこそが本当の人間であり、そこには欺瞞の無い絶望と格闘のループ運動である。そこに救いは無く、救いのなさこそが救いである。
*救いのない救いとは。
救いを求めれば虚構に縋り付く事になる。
真実を求めればその虚構を暴く事になる。
救いがない真実の中に立つ事こそ嘘偽りの無い救済である。
すなわち堕落論における救済とは絶望と孤独であり、思考を静止せず、安住を求めず、絶えず繰り返しそれらを行う運動である。
また、堕落論に共感、安心、実践する行為もまた、坂口安吾という他者の虚構に縋り付く行為である。